「会計とは何か」を考える有力な一つの手がかり

井尻雄士著『会計測定の基礎-数学的・経済学的・行動学的探求-』(1968年,東洋経済新報社)

 数年前の台湾会計学会のおりに,私は当時アメリカ会計学会会長であったSS先生と約10年前に続いて2度目の面談の機会を得た。私は,ご指導下の院生達に指定される本についてSS先生に質問した。SS先生は,井尻(1968)の下記「原著」,ご自著,バーナード著『経営者の役割』など6点をリストされ,これだけでも数ヶ月を要するとコメントされた。

 井尻(1968,序文)では,少なくともつぎの3点が言われる;a.行動科学,OR,それに当時出始めの電子計算機などから会計へのチャレンジが盛り上がっている情況のなかで,この情況に会計に携わる者一切を含む会計人達が対応するにあたり,目先の不平不満へのつじつま合わせに追われる会計に陥ることのないように,これまで会計が作りあげてきた基礎の研究こそが肝要であること,b.会計には会計の対象である経済や経営の現象に対する固有の見方,考え方,組織立て方があり,会計は学問的にも独自の哲学をもっていること,それに,c.ある分野の基礎を探求することは,いかなる科学者にとってもそのこと自身に本源的な意義が存すると同時に実用的な価値をもたないわけではないこと。

 井尻(1968)は,全8章で構成され,全体を通じてこんにちでも実に新鮮な思考や概念を用いながら会計測定の基礎が説明される。特に印象的な章は,つぎの4つである;(1)会社の財政状態と経営成績を「本体」,会社の貸借対照表や損益計算書から成る財務諸表を「写体」,とそれぞれを表現しながら会計での言語や測定の意味が説明される第1章,(2)「分類的複式簿記」と「因果的複式簿記」とによる会計記録が記述される第5章,(3)客観性(ないしは, 検証可能性)ついて,これを知覚する人間から独立した客観的要素の存在というよりも,観察者や測定者のある集まりのなかでの合意(consensus)と考える方が現実に即しているとの思考によりながら,「信頼度」は「客観度」と「信頼偏差」との和であると説かれる第7章,そして,(4)「社会は衣服の上につくり上げられたものである。人間の俗界的な利害関係はすべて衣服を通じて互いにホックやボタンで結びつけられているのである」(CARLYLE,T., Sartor Resartus (仕立て直された仕立屋))(1834, p.51)を引用しながら,衣服すなわち会計の存在なくして私たちの複雑な利害関係を結びつけることが不可能なのにもかかわらず,その担い手である仕立屋すなわち会計人に向けられてきた偏見や不公平の存在を指摘して,会計人への再評価を社会に訴えられる第8章。

 井尻(1968)は,「原著」と称されているIJIRI,Y., The Foundations of Accounting Measurement: A Mathematical, Economic, and Behavioral Inquiry (Prentice-Hall, Inc., 1967)の修正加筆版である。私には,まれに「原著」の方が説得力の強いことがある。その意味でも,同一著者による井尻(1968)と「原著」との双方を私は推薦したい。


藤井 建人 (経済学研究科 教授)

専門分野:国際会計,米国会計史
関心テーマ:コ-ポレ-ト・ガバナンス,財務会計制度の国際比較

歪められた会計数値

『会計トリックはこう見抜け』,ハワード・シリット著,菊田良治訳 (日経BP,2002年)

 本書は,会計操作に関する米国の事例を分析したものである。著者は会計操作を「財務粉飾」と称している。紹介されている財務粉飾は,架空取引を用いた粉飾ではなく,取引に対して不適切な会計処理を行い,売上高や利益を操作する事例が多く集められている。本書でも述べられているが,財務粉飾は害のないものから詐欺的なものまで幅広く存在し,程度の差こそあれ,小企業から大企業まであらゆる企業で行われている。著者は詐欺的な財務粉飾がいかに投資家を不幸にするかを力説し,その発見手法を伝授している。 

 財務粉飾のような経営者が会計数値を歪める行為について,大学での講義ではふれられることはめったにない。会計教育といえば簿記から入る場合が多い。そこでは取引が与えられ,「あるべき」会計処理があり,簿記のシステムを通じてあたかも自動的に財務諸表が作成されるように説明される。同一取引に対して,認められない処理も含めた様々な会計処理例を示して,採用する手法に応じて異なった会計利益が計上されるといった解説は余り行われない。 

 しかし現実には会計数値は自動的に生成されるわけではなく,会計処理には経営者の意図を介入させることが可能である。というよりむしろ,財務諸表の作成にはありとあらゆることに経営者の見積もりや判断が不可欠である。例えば,資産の耐用年数や貸倒の見積もりを一つとっても,それは理解できるであろう。 

 そのような会計の特徴を理解しつつも,経営者が相対している利害関係者は,売上高や利益の安定した成長を望む。そのなかでも投資家は強い影響力を持ち,予想された会計利益を達成するか否かを特に注目している。本書では,経営者がなぜそのような財務粉飾に手を染めたかは詳しくは解説されていないが,多くは投資家の期待を達成するためであることは想像に難くない。米国では1株当たり利益が市場の予想から僅かに1セント欠けるだけで,市場で厳しく評価される現実からも,経営者のプレッシャーの大きさは理解できる。言い換えれば,それほど会計数値は投資家で重視されているのである。 

 しかし,本書で紹介されたような財務粉飾が頻発すれば,会計に対する信頼性が失われる。極端な想像かもしれないが,会計がなんの参考にもならない不要なものと見なされてしまうこともありうる。そうならないためにも,会計に携わるすべての関係者の不断の努力が求められている。そこで原動力となるのは,本書の著者のように,粉飾は許されないという姿勢ではないだろうか。


榎本 正博 (経済学研究科 准教授)

専門分野: 財務会計
関心テーマ: 会計処理方法の選択

童話に学ぶ経営学

『クマのプーさんと学ぶマネジメント―とても重要なクマとその仲間たちが、とても重要なことを初めて体験するお話』(ロジャー・E・アレン著、新田義則訳、ダイヤモンド社、1996年(新装版2003年))*

 本書は、A.A.ミルンの童話『クマのプーさん』(1926-)の物語を題材に、目標設定、組織化、動機付け、権限委譲、リーダーシップ等、組織のマネジャー(管理者)が担うべき主たる職能について解説した異色のマネジメント本である。著者のロジャー・E・アレンは経営コンサルタントでありP&G等の大企業でライン管理者を務めた経歴をもつ。本書の刊行後も『クマのプーさんと学ぶ問題解決』(1995)、『クマのプーさんと学ぶ成功の法則』(1997)の著書がシリーズ化され、原著は最初の2作で公称20万部以上売れる人気作となった。

 さて本書では『クマのプーさん』(石井桃子訳)で描かれた、プーやトラー、コブタなどお馴染みの森の仲間たちが登場し、彼らのエピソードが一節ごとにマネジメント上の教訓(?)とともに紹介される。本書には、原作のE.H.シェパードの挿絵(ディズニー版と異なりどこか懐かしく淡い味わいがある)も再掲され、原作のもつ詩的な世界観がそのまま伝わってくる。その牧歌的な物語には、もちろん近代的な工場が存在するわけでもないし、学校や教会のような組織が活動しているわけでもない(むしろ原作の書かれた背景には当時の英国社会で急速に進む都市化への抵抗もあったといえる。自然への憧憬の念はミルンの同時代のエドワーディアンの知識人に共有されるところのものであった)。

 森の仲間たちが過ごすのは変哲のない日常のゆるやかな時間であり、めまぐるしく環境が変化し時間に追われる経営管理の世界とは縁遠いように思える。また、はちみつ好きのプーに代表されるように、多くの登場人物(動物)は勝手気ままに生きていて、働くことはとても嫌いなようにも見える。まさにマグレガーのⅩ理論(人間は本質的に怠惰で外的な報酬等がないと働かないという伝統的な管理論の前提)がそのまま適用され得るようなキャラクターばかりである。

 しかし仲間たちが森で冒険を企てるとき、一時的な「組織化」が起こり、「計画」や「リーダー」の要素がそこに備わる。なかでもクリストファー・ロビン(プーの一番の友人で心優しい性格の男の子。ミルンの同名の息子がモデルとなっている)率いる北極探検隊のエピソードは、ミルンの描いた人間性あふれる、他者へのやさしいまなざしとともに、個性尊重のマネジメントについて示唆するところの多い格好の素材である。たとえば、「クマなんてものに北極を発見できますか」と不安がるプーに対して「もちろん、できるさ。ほかのみんなだって、できるさ。探検なんだもの」と励まし、プロジェクトに魅力と意義を感じさせるロビンは部下の動機付けに長けたリーダーである。

 またロビン曰く「ぼくね、鉄砲だいじょうぶかどうか、しらべるから、きみ、そのあいだに、みんなにしたくをするようにって、いってきてよ」とプーに任務の一部を委譲するのは、本人に時間的余裕を生み出すともに、部下に成長の機会をも与えるよいマネージャーのお手本であり、さらにプーが川で溺れた仲間を助ける際にたまたま使った棒を、地面に立て「のーす・ぽール、プーがこれを見つけた」とメッセージを結んであげたのは、部下の手柄を横取りしないで正当に認める有能なリーダーシップの典型である、というように。

 本著者のアレンのこうした観点は(やや解釈に誇張された印象が否めないが)、マネジメントとは、強権的に他人を働かしめるものという旧来的な観念を揺るがし、メンバー個々に目標への貢献意欲をもたせ、コミュニケーションを通じてさまざまな働きかけを行いながら目標達成へと導くもの、という近代組織論のエッセンスをあらためて伝えるものである。著者の力説する、ボトムアップ的にメンバーの協働を鼓舞し目的を遂行する、というリーダーの役割モデルはC.I.バーナードの『経営者の役割』(1938)を髣髴(ほうふつ)とさせる。

 このように見てくると、人々の協働体系をデザインするマネジメントは、何らかの目的をもった組織がつくられるかぎり、その組織を有効に機能させるための必要条件であり、たとえ子どもたちの遊び集団であってもその要件は変わらないということが分かってくる。子どもたちは遊びを通じ、経験的に動機付けや権限委譲などの適切なリーダーシップを学び取っていくのかも知れない(企業のリーダーシップ研修で、よくアスレチックゲームなどの集団体験を通じたプログラムが設けられるのも首肯できる)。

 もっとも原作では、頼れるクリストファー・ロビンをのぞけば、プーとその仲間たちは、そそっかしく思惑通りに事が進まないで、失敗してしまう場面が多い。完璧でないこと、そこに愛らしさ、微笑ましさがあり、この童話の魅力となっている。本著者のアレンは、失敗から学ぶこともマネージャーの重要な役割だからねとフォローするのだが、プーにはそのような機敏な学習能力を期待したくない、と思うのは筆者だけであろうか。

*原著 Roger E. Allen. 1994. Winnie-the-Pooh on Management: In which a Very Important Bear and his friends are introduced to a Very Important Subject. Dutton/Penguin USA.
訳書・書籍詳細(ダイヤモンド社)
http://book.diamond.co.jp/cgi-bin/d3olp114cg?isbn=4-478-35049-3


高浦 康有 (経済学研究科 准教授)

専門分野:経営学原理、企業倫理
関心テーマ:経営学の研究・教育方法論

不況期に静かに台頭する新たな「優良企業」

 スモール  ジャイアンツ
『SMALL GIANTS』 ボー・バーリンガム著、上原裕美子訳(アメリカン・ブック&シネマ、2008年)

 この本は、アメリカの各地に静かに台頭しつつある新しい優良企業14社を扱った最前線のフィールド・レポートである。取り上げられている米国各地の企業は、「小さな巨人」というタイトルが示すように無名の、日本人にはなじみの少ない企業が多い。なぜこれらの企業が「小さな巨人」なのかと、疑問に思われる読者も多いかもしれない。しかし本書を読み進めるうちに、その疑問は氷解し、疑問は魅力に変わっていく。この本が2005年に出版されて以来、ベストセラーを続けている理由も納得がいく。 

 本書を貫いている本質的な問いは、企業の成功についての社会通念にたいする根本的な疑問である。「事業は成長しなければ破滅あるのみ」、「企業は大きいほうがいい」、「会社は株主の利益のために存在する」、「事業は利益をあげる手段である」といった、ビジネスの世界で常識とされてきた通念がことごとく爼上(そじょう)に載せられ、それに代わる企業像が「小さな巨人」として描かれていく。

 著者のボー・バーリンガムによれば、事業は利益をあげるための単なる手段ではなく、それ自体に他社にはない魂がある。企業を真に優れた存在にし、取り組む価値のある存在にするのはその事業の魂だ。そうした独自の魂は、人間的な規模を越えて拡大すれば、希薄化してしまう。「成長のための成長」という考え方が経営者を支配するようになり、会社は社員の幸せのためにあるという原点は、いつのまにか雲散霧消してしまう。ビジネス界での社会通念を疑い、事業の魂を大切に育み、株主以外の利害関係者との親密な関係性と絆を通して独自の魅力と優位性を築いていく企業群を著者は「小さな巨人」と呼んでいる。

 この本は、昨年秋のリーマン・ショックに端を発する世界的不況の前に出版されたものではあるが、わが国では昨年末に翻訳が出版され、広く読者を獲得するに至っている。金融資本主義が米国を中心に世界を席捲していたまさにその時期に、こうした地味な本がベストセラーとなっていたことに、私はある種の希望を感じる。また時を同じくして、わが国でも坂本光司著『日本でいちばん大切にしたい会社』(あさ出版)などがベストセラーとなり、地味な地方の中堅・中小企業の経営に改めてスポットライトが当てられていることを大変喜ばしいことだと思う。多くの地域企業の関係者に一読をお薦めしたい私の大切な一冊である。


大滝 精一 (経済学研究科 教授、地域イノベーション研究センター長)

専門分野: 経営政策
関心テーマ: 企業のイノベーション戦略、地域企業の経営戦略

広告はなぜ効かないのか&アンケート調査で何がわかるのか

『サブリミナル・マインド:潜在的人間観のゆくえ』下條信輔著 中央公論新社 1996年

 ついに名だたる広告業界の名門企業も最終赤字を計上!というようなニュースが駆けめぐった昨今、多くの論調はその理由をインターネット広告の台頭に求めているようだ。たしかにこの影響は大きいが、他方ではインターネットが登場するよりはるか前から、広告が増えすぎた結果としてそもそも効かなくなってきたと言われ続けていたことも忘れてはならない。

 そのような指摘がなされるときにしばしばその理由としてあげられてきたのは、そもそも人間は自分を取り巻く大量の情報の中から興味があるものだけを無意識のうちに選択して受取り、あとは無意識に遮断しているのだという言説であった。例えば(例は少し古いが)、米国の大統領選挙では民主党支持者には民主党の候補者を褒め称える広告だけが届き、共和党側の候補者を称える広告は届かない(気づかれない)と言われてきた。その理由は、民主党支持者は無意識のうちに共和党寄りの広告を遮断しているから、というのである。実際このコラムの読者の中にも、毎日前を通っていたのに、関心がなかった間はそこにそれがあることに全然気づかなかったというような経験をした方がいるのではないだろうか(あるいはそんな間抜けな人間は私だけだろうか)。

 人間が無意識に情報を取捨選択しているという仮説は、マスコミ研究の分野では1960年頃から提起され、その主張の適否をめぐって長年議論が展開されてきた最重要論点の1つでもある。

 しかしちょっと考えてみればすぐにわかるように、これはきわめて奇異な主張なのである。なぜなら、ある人が情報の内容が自分にとって興味のあるものかどうかをチェックしたということは、その人はすでにその情報を受け取って処理しているからである。つまり「情報を受け取る前に内容をチェックする」という主張は、そもそも矛盾しているのである。

 今回ご紹介する本は、以上のような疑問に対する回答の一端を与えてくれる良書である。本書は、認知科学研究の若手ホープであり、現在カリフォルニア工科大学で精力的に研究を続けている下條信輔氏が、閾下知覚(subliminal perception: 気づくことのできる閾値以下の刺激に対して反応する現象のこと)に関する最新の研究動向をまとめた本で、新書版だが内容のレベルは非常に高く、また充実していて、しかも分かりやすく、面白い。この分野の名著と言われていることも頷ける。

 本書の主張を一言で要約すれば、人間の情報処理の大部分は潜在意識下で無自覚的・自動的に行われていて、顕在意識にのぼり明確に意識されるものは、そのうちのほんの一部に過ぎないということである。だから、消費者が関心のない製品の広告を本人も気づかないうちに無意識に遮断するということは実際にあり得るのだ。本書には、このような閾下知覚に関する興味深く不思議な実験結果が豊富に収録されている。

 例えば人間は、人間の認知能力では見えないほどの短時間だけ見せられた単語(プライム語)について、後から呈示された別の単語と形や意味が似ていたかどうかを正しく判断できる(しかし、プライム語があったかなかったかについては正答できない)。あるいは見えないほどの短時間だけ見せられたものによって、その後の行動や判断に影響を受けることがある、等々。この後者の例は、「サブリミナル効果」として従来たびたび話題になり、その真偽をめぐって議論が展開されたものだが、今日ではそのような効果が存在すること自体はほぼ受け入れられている。その最新の研究状況を本書で知ることができる。

 本書を読むと、「あなたはなぜこの商品を買ったのですか」と本人に尋ねるという、よくあるアンケート調査の方法によってわかることは、かなり限定されると考えざるを得なくなる。ましてや、インターネット・ユーザー調査と称して、「あなたはいまなぜここをクリックしたのですか」などと尋ねることに意味があるのだろうかという気になる。

 私が本書に出会ったのは1998年頃であった。当時10年間務めた会社を辞めて研究者に転職しインターネット上の消費者行動について研究しようか、などと漠然と考えていた私は、本書を読んだ結果、もし本当に研究するのなら、そのための方法論としてはアンケート調査ではなく、被験者の行動や態度を実験で直接測定する方法を用いようと決心した。その後本当に会社員を辞めて研究者の道に踏み入ってしまった私は、以来いまだに実験の方法をメインに用いている(のでお金がかかって仕方がない)。本書はそんな思い出深い本でもある。

 ちなみに著者の下條氏は2008年12月に、本書の続編ともいうべき『サブリミナル・インパクト』をちくま書房から刊行していて、こちらも学術的にも話題性の面からも大変に興味深い内容となっている。ぜひ併せて読まれることをおすすめしたい。


澁谷 覚 (経済学研究科准教授)

専門分野:マーケティング、消費者行動、クチコミ
関心テーマ:インターネット、消費者情報探索プロセス、消費者間相互作用

「政府の無駄遣い」を喧伝することで得をするのは誰か?

井堀利宏『 「歳出の無駄」の研究』日本経済新聞出版社、2008年

 IMF・CIAによると、2008年時点におけるGDPに対する累積財政赤字比率のワースト1はジンバブエで218.2%、第2位は日本で194.9%だそうです。ジンバブエは年率2億3100万%のインフレが発生していることで有名ですね。日本は今のところ社会混乱を起こさず国債を発行できており、ある意味財務省を賞賛すべきなのかもしれませんが、とはいえ、もはや限界に近いというのは多くの方が同意するところだと思います。財政赤字は少子化と並んで、日本の将来が抱える最大の不安の1つと言っていいでしょう。

 なぜ先進国の中で日本にだけこれほど財政赤字が発生しているのでしょうか。歳出が大きすぎるのか、税収が少ないのか。実は、客観的にデータを見れば日本の一人当たり歳出規模は先進国中それほど大きいわけではなく、間接税をはじめとする租税負担率がかなり低いことが分かります(但し、社会保障負担は高齢化のためそれなりに大きい)。どの程度の福祉を目指すのかにもよりますが、他国と比べる限り日本は「税金が安すぎるから財政破綻しようとしている」というわけです。

 と、こんなさらっとした説明で納得されましたでしょうか?「そんなわけがない、役人が無駄遣いをしているからに違いない」、心のどこかでそう思っている人は少数ではないでしょう。「毎日税金を払ってやっているのに安すぎるとは何事か!」と立腹する方もいるでしょう。したがって、視聴率が気になるマスコミも、次の選挙が心配な政治家も正面切って「税金が安すぎる」と言うことはできず、かといって「福祉を削減せよ」というのも不人気なわけで、結局「どこかに役に立たない無駄があるに違いないからそれを削減せよ」というのが無難な落としどころとなるわけです。

 何も役立たない無駄を削減すること自体は、誰にも反対できないよいことです。しかし、何も役立たない無駄「絶対的な無駄」はどれほどあるのでしょうか? 井堀利宏著『「歳出の無駄」の研究』では政府の支出各項目を吟味し、「絶対的な無駄」が最大どれほどあるか大胆に推計しています。たとえば国家公務員の人件費5兆円のうち、現業職員を中心に3000億円程度が節約可能、7兆円の公共事業のうち1割程度が調達方法の改善により節約可能、これらの合計1兆円程度が国の予算の絶対的な無駄であり得ると推計しています。地方政府・独立行政法人などを合わせると最大4兆円程度(GDPの1%)であり得る。これらを出来るだけ削減することは重要ですが、本書はむしろ、「絶対的な無駄が(中略)50兆円以上あるように宣伝し、それを完全になくすことをターゲットにすることは、二重の意味で非現実的な目標設定をすることになる。その結果、誰もそれを真剣に解決しようとしない」と警鐘を鳴らしています。

 本書の分析によると、高齢者への過剰な年金給付、生活保護、外国へのODAなど15兆円程度は給付の便益が費用を下回り「相対的な無駄」であり得ます。実在しない「巨大な絶対的無駄」を削減せよというスローガンは、より金額の大きな相対的無駄から目をそらさせ、また増税も先送りさせる。その結果得をするのは、相対的な無駄が手つかずのままで現在の増税を逃れる現役世代、特に中高年の世代であると本書は看破しています。大きく損をするのは将来世代と若者です。

 多くの若者が「歳出の無駄」の内実を知り、無駄の削減だけを喧伝する無責任さに気がついてほしいと思います。いや、すでに十分内実を知っており、マスコミに冷たい視線を送っているのかもしれませんが…

堀井 亮 (経済学研究科 准教授)

専門分野: マクロ経済学
関心テーマ: 経済成長・所得分布
 

費用便益分析の創始者はローマ人?

塩野七生『すべての道はローマに通ず(上下):ローマ人の物語27、28』(新潮社、2006年)

 本著の上巻では、現在のEU圏に相当する地域における延べ8万キロにのぼるローマ街道網の建設・維持管理を行った目的、計画、設計、施工、意志決定、財源に関する政策を重点的に取り上げている。

 著者は、下巻の「おわりに」において、「社会資本、・・・、インフラストラクチャーを、ローマ史を勉強していくうちに私は、個人ではやれないがゆえに国家や地方自治体が代わっておこなうこと、と考えるようになった。そしてこのインフラを、ローマ人の定義ならば、「人間が人間らしい生活をおくるために必要な大事業」を、ハードとソフトに2分したのである。ハードなインフラには・・・街道、橋、港、神殿、公会堂、広場、劇場、円形闘技場、競技場、公共浴場、(上下)水道等のすべてが入ってくる。ソフトなインフラになると、安全保障、治安、税制、通貨制度、郵便制度、貧者救済のシステム、育英資金制度、医療、教育までも入ってくるのだ。ローマ時代では、これらのすべてを備えていないと都市とは認められなかった。」これは、特に、ハードなインフラは、日本政府が定義している社会資本の定義そのものである。すなわち、社会的に必要であるが民間に任せておくとその供給が著しく不足する資本という定義と全く同一である。

 それでは、ローマ時代において人間が人間らしい生活をおくるために必要なこととはなにか。本書では、アッピア街道をはじめとするローマ街道に対しては、第1に,軍団の敏速な移動、第2に,町の中心までの物資や人々の往来の迅速な輸送、交通の確保、その結果としての市場の成立、経済の発展、生活レベルの向上、第3に、規格の低い既存道路を残し、それに並行する形で規格の高い道路を建設することにより、片方の道路が遮断されても、別の道路を迂回路として使えるというリダンダンシーの確保である、と述べている。これは、第1の軍事目的の重要さの程度の変化はあるが、現在では世界中で共通して合意している道路の社会的便益である。そして、国際技術援助機関をはじめ、すくなくとも、先進国では、道路の投資基準としては、費用便益分析を採用している。しかし、われわれ現代社会は、費用便益分析をローマ人から直接学んだわけではない。

 道路の便益を消費者余剰で計測することを提唱した先駆者は、西ローマ帝国が滅亡して1500年経過した19世紀のフランスの土木技術者デュピュイJules Dupuit*である。20世紀に入りマーシャルが、デュピュイの1844年の論文「公共事業の効用の測定について」を発見し、以後、現代経済学の創始者の一人であるとの認識が普及したといわれている。当時のフランスの土木公団がこのような革新的な経済学を発明することができた背景には、彼らが、道路、運河、水道などとローマ時代とまったく同じインフラを同じ目的で建設維持することの社会的合理性を示す理論を必要としていたからだ。ローマ人の物語を読んで、ローマ帝国の末裔であるデュピュイたちは、ローマ時代に建設されたローマ街道の効果について丁寧な事後分析をすることでヒントを得て限界効用・消費者余剰の概念を作り出したのではないかとさえ私には思えてくる。

* Duipuit, A.J.E.J(1844) De la mesure de l’utilite des travaux publics, Annales des Ponts et Chaussees, II-t.8 (栗田啓子訳『デュピュイ 公共事業と経済学』日本評論社、2001年)


森杉 壽芳 (経済学研究科 特任教授)

専門分野: 費用便益分析,応用ミクロ経済学
関心テーマ: 公共事業評価、地球温暖化経済評価、交通料金、国土計画、交通計画

日本のアルゴノーツは日本経済の救世主となるか?

アナリー・サクセニアン『最新・経済地理学』(酒井泰助監訳、2008年、日経BP社)

 アナリー・サクセニアンのRegional Advantage(邦訳『現代の二都物語』大前研一)に出会ったのは大学院生のころであった。この本ではシリコンバレーとボストンのルート128という二つの地域の比較分析をし、選択された技術、分業構造、そして文化社会システムによって、両地域が急激に変化する環境の中で対照的な道を歩んだ様を描きだしたものであった。1980~90年代に急激な環境変化に対し巧みに適応したシリコンバレーの分散的産業システムを目指して、世界各国でさまざまな取り組みがなされたことは記憶に新しい。

 あれから11年、サクセニアンが上梓したのが、The New Argonauts: Regional Advantage in a Global Economy(邦訳『最新・経済地理学』)である。本書の対象は地域ではなく地域間を移動する人々(帰国留学生)である。ちなみに本書のタイトルである「アルゴノーツ」というのは、ギリシア神話にでてくる船「アルゴ」に乗船する50名の勇士たちの呼び名である。彼らは金の羊毛を探す旅にでて、困難を乗り越えながらも東方の国の女王メディアの助けを借り、それを達成し、彼女を連れて国に帰る。本書では、海外(ここでは米国)で学位やキャリアを積んだ後、そこで培った技術やネットワークを母国に呼び込む帰国留学生を「アルゴノーツ」になぞらえている。

 ハイテク産業が地域的に集積するという傾向があることはこれまでも指摘されてきたことであるが、産業全体の拡大に伴って今やそのいくつかの機能は世界各地で分業されている。その中心がシリコンバレーであることは(サクセニアンは)変わらないとするが、周辺部や特定部分の担い手となっているのは、台湾、イスラエル、中国、インドといった国々である。これらの国々は、これまで安い労働力を武器に成長をしてきたという見方をされてきた。しかしこれらの国々は、実は世界に広がるハイテク・ネットワークの重要な一部を担っている。そして、彼らをハイテク・ネットワークの一員に押し上げたその原動力こそ現代のアルゴノーツである帰国留学生たちであるというのが本書の主張である。彼らは母国でビジネスを興しながらも、シリコンバレーの技術や市場と接点を持ち続け、シリコンバレーのやり方を(アレンジをしながらも)母国に導入し、新たな制度やルールを生み出そうとしているのである。

 しかし彼らの帰国を母国は必ずしも温かく迎え入れたわけではない。整わないインフラ、矛盾に満ちた法制度、未だ低い教育水準、未整備な資金調達制度、さまざまな偏見など、彼らの歩む道には問題が山積していた。むろん台湾のように政治家と帰国留学生がビジョンを一つにする国もあったものの、多くの場合、アルゴノーツが待ち受ける道は茨の道であった。それでも彼らが戦い続ける様が本書には淡々と描き出されている。

 さらに本書は日本、フランス、韓国を上記の4国と対照的に、現代のアルゴノーツたちの才能を生かせずにいる国として取り上げている。確かに日本の組織では海外留学を一つ「勲章」としてしか見なさず、帰国留学者たちが海外で学んだ経験がなかなか仕事に生かせないと嘆く声はよく聞かれる。またある調査によると日本人留学生が留学後、留学先で就職するのはごく数パーセントで、多くがそのキャリアを武器に外資系企業や大企業への就職を希望するという。日本にはアルゴノーツたちを文化や社会によって窒息させてしまう何かがあるのであろう。サクセニアンが懸念するように、これで日本は世界のハイテク・ネットワークの中で生き残れるのであろうか。

 実は筆者はサクセニアンの描き出すアルゴノーツたちを介した発展が機能するのは、世界の中で一部ではないのかと思っている。アルゴノーツたちの帰国を促したのは、ITバブルの崩壊、自国の産業レベルの向上などである。しかしそれ以上に彼らが母国に戻ろうと決意したのは、母国愛といった単純なものだけでなく、移民として米国社会に100%受け入れられることはないという諦念と満たされない思いもその根底にある。自分の存在をかけているからこそ、母国に世界で評されるシリコンバレーのようなシステムを作り、シリコンバレーと母国をつなげ、母国での可能性に賭けて戦うのである。平和で豊かな故郷をもつ日本人にこのような思いはあるであろうか。確かにサクセニアンが示唆するように国がもっと支援すれば、日本にはアルゴノーツたちをもっと活躍させる余地があるかもしれない。ただ、本書に出てくる他国のアルゴノーツのさまざまな奮闘を読む限り、それだけでは不十分であろうと思わざるをえないのである。

 日本が、今後経済発展を図っていくためには、シリコンバレー・モデルの伝導者であるアルゴノーツを介した発展を図るこれら国々とは異なるロジックが必要なのかもしれない。シリコンバレー・モデルは確かに魅力的ではある。しかしすべての国に万能薬というわけではない。そんな思いを強くした一冊である。


福嶋 路 (経済学研究科 准教授)

専門分野: 地域企業論、企業戦略論、イノベーション論
関心テーマ: イノベーション、技術の商用化、産学連携、地域振興

誰のために、何のために大学教育の「質」を「保証」するのか?

『大学教育と質保証-多様な視点から高等教育の未来を考える』斉藤里美、杉山憲司(編著)(明石書店、2009年)

 大学間競争のグローバル化が進む中、国内では少子化という独自の問題を抱える日本の高等教育機関に今、求められる「質の保証」とは何か?

 本書では、高等教育に関わる専門家らが、それぞれの専門領域というフレームワークの中で大学の「質」と「保証」を定義し、大学教育の目標・方法またその質保証と学習を支える要因の相互作用を分析しながら、大学教育の質保証とは一体誰のために、なぜ行うのかという共通のテーマを追う形で議論を展開させている。

 具体的には、高等教育の質保証を世界の主要地域・国および日本の政策的観点より整理・分析し(1章)、質保証の対象者や大学が追う説明責任が高等教育政策史上どのように変容してきたかを検証することにより現在の課題を洗い出し(2章)、質保証を支える学習を教育心理学的視点で捉え、従来の知識伝達型の授業に、教育効果の高い学生参加型を取り入れ「教員と学生の相互信頼感に基づいた学びのコミュニティー」(p.92)作りを行うための具体的ペタゴジー(教授法)を紹介している(3章)。また、4章、5章では、学生相談、キャンパス・アメニティーの観点から、学習の場面以外でも大学の質保証に関わる要因が存在することを指摘した上で、教育と学生支援を統合させた包括的なキャンパスライフの質の向上への方策が提案されている。

 6章では、地域論から大学の意義や課題を見直し、従来の研究成果の応用・実践というルートのみならず、社会人教育や学生参加型、プロジェクト型の地域連携型教育により大学と地域社会のつながりを深めることの重要性が説かれている。「グローカリゼーション」の推進で大学が担うべき役割は何か、大学教育の質が社会で検証されることが質保証にどのようにつながるかという視点から興味深い議論が展開されている。

 7章は、大学教育のあり方をキャリア教育・支援という切り口で論じている。社会で必要とされる学士力、社会人基礎力を備えた自律的人材を、大学がそれぞれの建学の精神、使命、教育目的に則った教育方法で育てることの重要性に言及し、またそのためにはこれまで連続性の希薄が指摘されていた大学と産業界の意思疎通を活発化させ、社会へのフィードバックを意識したキャリア教育を体系的に展開してゆく必要があると指摘している。

 高等教育の国際競争はWTOのサービス貿易に関する一般協定(GATS)発効に伴い、高等教育がサービス貿易の対象となったことで本格化した。OECDが進める国際的に通用する主要能力(キー・コンピテンシー)評価の枠組み作りは世界各国の学力・能力観に影響を与え、The Times Higher Education Supplement(英Times誌別冊)や上海交通大学が毎年発表する世界大学ランキングは、大学間競争を激化させる要因となっているとの批判がある一方で、一定の評価基準で大学の質を検証することで高等教育の信頼性や透明性を高め、各国の機関に国際通用性を意識させるという点では評価に値する役割を果たしている。

 アメリカでは第3者専門機関によるアクレデーション(適格認定)の整備が進み、ヨーロッパではボローニャ宣言(1999年)に続き、欧州高等教育質保証ネットワーク(ENQA)が2005年に「欧州高等教育圏質における質保証のための規準および指針」を発表するなど、高等教育の質保証のための取り組みが行われている。また、留学生の比率が50%を超す大学も出現している豪州では、世界各国から優秀な学生を獲得するために国際競争力を意識した大学改革が進められている。

 日本の大学はこれらの高等教育の国際化による外的プレッシャーに加え、少子化や学士力の問題、また経済界の要請に従属的な人材育成を行うことへのジレンマなど、内的プレッシャーとも向き合いながら、「質」を向上・維持し、「保証」するための方策を模索しなければならない状況にある。本書が指摘するように、我々大学関係者は、質保証の重要性を認識しながらも、大学評価の標準化が大学から個性を排除しないよう、「質」の多様化を試み、大学の自律性・裁量と質保証をどのように天秤にかけるか、さらに議論を深化させる必要がある。


末松 和子 (経済学研究科 准教授)

専門分野:国際教育、異文化間教育
関心テーマ:異文化間教育効果、異文化適応

研究者の人生とは…

丸山徹『ワルラスの肖像』(勁草書房、2008年)

 著者は「序」において「私は、その静かな学究生活に深い諦念の悲しみが漂うワルラスの姿を描いてみたいと、長い間思いつづけていたのであるが、…これはワルラスの為人(ひととなり)、思想・学説、そして彼の生きた時代の肖像をおぼろげながら描いた素描である」(p. i)と本書の目的を述べている。目次は以下の通りである。

第1章:1870年前後
第2章:経済の均衡-ワルラスが見た世界
第3章:革命期フランス数学の明暗-コンドルセからクールノーへ
第4章:欲望の価値学説-アリストテレースからガリアーニへ
第5章:効用と需要-常識から科学へ
第6章:生産と分配-書簡から読みとる人間模様
第7章:イタリアのローザンヌ学派-パレートの育む均衡理論の苗床
第8章:ウィーンの世紀末-数学・哲学そして経済学
終章

 目次を一瞥すれば分かるように、本書は実際には著者自身が「序」で述べた目的を大きく超えた内容を含んでいる。議論は純粋経済理論から、19世紀ヨーロッパ史、数学史、古代ギリシャからの哲学史へと議論は縦横無礙に行き来する。しかし、読みづらいと感ずることはない。著者の筆力の賜物である。

 周知のように、ワルラスは限界革命を引き起こした経済学説史上の巨人である。著者によると、ワルラスは父A.ワルラスとクールノーという「ふたつの思想の大河をそれぞれに下ってきたふたりの舟人に出会い、その合流点から自らもその流れに竿さす身となった」(p. 115)という。そこで、ワルラスの源流とも言える父ワルラスとクールノーの足跡を辿る旅へとわれわれは誘われる。

 ワルラスはクールノーから数学手法を経済分析に適用する手法を学んだ。そして、クールノーが生きていた時代のフランスの数学界の状況、コンドルセがヴォルテールやチュルゴーらの考えに触発され「社会数学」という新しい数学のジャンルを構想したこと、その新しいジャンルがポアッソンを経由してクールノーに継承されたことなどが鮮やかに描き出されている。

 他方で、ワルラスは父ワルラスからは価値・価格の説明原理として主観的要因=効用を重視する基本的視角を継承した。主観的価値論の歴史がアリストテレースに始まり、イタリア経済思想界で彫琢され、その後フランスに移入され、父ワルラスへと繋がる歴史的系譜が明快に描かれている。

 クールノーが経済学に初めて明示的に導入した需要関数を効用最大化から導出したところにワルラスの偉大な貢献がある。著者はワルラスが効用から需要の導出を完成させたのは1872年の秋から冬であると特定している。日本のワルラス研究者として高名な安井琢磨氏、御崎加代子氏の著作ではワルラスの中で限界革命が起こった時期は、管見の限り明言されていない。また、根岸隆氏のワルラスに関する業績の中でも明言されていない。評者は経済学史の専門家ではなく、それらに関する海外文献に精通しているわけではないので断言はできないが、ワルラスにおける限界革命が起きた時期を特定したことは本書の大きな功績であろう。

 本書を通じて著者が描いているのは、ワルラスの孤高な研究者の姿である。一般均衡論がなかなか経済学界で受け入れられなかったこと、数学を経済学に応用することに対する数学者の冷やかな目、ローザンヌ学派内での不和など、ワルラスの孤独感・挫折感が伝わってくる。このようなワルラスの生涯を当時の歴史的状況から丁寧に説明している。また、効用の可測性、積分可能性など限界革命期当時に生じ、しかも現在の教科書ではほとんどお目にかかることのない深い議論やワルラスとメンガーとの間の方法論争が紹介されている。昨今の経済学の技術的な高度化に伴い、この辺りの議論に関する経済理論家の関心が失われてしまったように思う。経済学史のみならず理論の専門家にとっても、本書は一読の価値がある。

 敢えて無いものねだりを言えば、本書はワルラスの一般均衡に関する理論的学説は余すところなく描いているが、社会思想に関する議論はやや手薄である。ワルラスの社会思想が基本的には父ワルラスのそれをそのまま継承し、サン・シモニアンの影響を強く受け、自然法的・理想主義的な傾向を有していたことは論じられているが、微に入り細に入り検討している経済理論に関する議論に比して、「応用経済学」や「社会経済学」に関する議論に割いている紙面は明らかに少ない。とはいえ、経済学史上の巨人はスケールが大きいが故に巨人なのであり、巨人を論じる際に濃淡があることは当然である。このことはあくまでもないものねだりであって、本書の貢献を損なうものではない。

黒瀬 一弘 (経済学研究科 准教授)

専門分野:経済政策
関心テーマ:マクロ経済学