費用便益分析の創始者はローマ人?

塩野七生『すべての道はローマに通ず(上下):ローマ人の物語27、28』(新潮社、2006年)

 本著の上巻では、現在のEU圏に相当する地域における延べ8万キロにのぼるローマ街道網の建設・維持管理を行った目的、計画、設計、施工、意志決定、財源に関する政策を重点的に取り上げている。

 著者は、下巻の「おわりに」において、「社会資本、・・・、インフラストラクチャーを、ローマ史を勉強していくうちに私は、個人ではやれないがゆえに国家や地方自治体が代わっておこなうこと、と考えるようになった。そしてこのインフラを、ローマ人の定義ならば、「人間が人間らしい生活をおくるために必要な大事業」を、ハードとソフトに2分したのである。ハードなインフラには・・・街道、橋、港、神殿、公会堂、広場、劇場、円形闘技場、競技場、公共浴場、(上下)水道等のすべてが入ってくる。ソフトなインフラになると、安全保障、治安、税制、通貨制度、郵便制度、貧者救済のシステム、育英資金制度、医療、教育までも入ってくるのだ。ローマ時代では、これらのすべてを備えていないと都市とは認められなかった。」これは、特に、ハードなインフラは、日本政府が定義している社会資本の定義そのものである。すなわち、社会的に必要であるが民間に任せておくとその供給が著しく不足する資本という定義と全く同一である。

 それでは、ローマ時代において人間が人間らしい生活をおくるために必要なこととはなにか。本書では、アッピア街道をはじめとするローマ街道に対しては、第1に,軍団の敏速な移動、第2に,町の中心までの物資や人々の往来の迅速な輸送、交通の確保、その結果としての市場の成立、経済の発展、生活レベルの向上、第3に、規格の低い既存道路を残し、それに並行する形で規格の高い道路を建設することにより、片方の道路が遮断されても、別の道路を迂回路として使えるというリダンダンシーの確保である、と述べている。これは、第1の軍事目的の重要さの程度の変化はあるが、現在では世界中で共通して合意している道路の社会的便益である。そして、国際技術援助機関をはじめ、すくなくとも、先進国では、道路の投資基準としては、費用便益分析を採用している。しかし、われわれ現代社会は、費用便益分析をローマ人から直接学んだわけではない。

 道路の便益を消費者余剰で計測することを提唱した先駆者は、西ローマ帝国が滅亡して1500年経過した19世紀のフランスの土木技術者デュピュイJules Dupuit*である。20世紀に入りマーシャルが、デュピュイの1844年の論文「公共事業の効用の測定について」を発見し、以後、現代経済学の創始者の一人であるとの認識が普及したといわれている。当時のフランスの土木公団がこのような革新的な経済学を発明することができた背景には、彼らが、道路、運河、水道などとローマ時代とまったく同じインフラを同じ目的で建設維持することの社会的合理性を示す理論を必要としていたからだ。ローマ人の物語を読んで、ローマ帝国の末裔であるデュピュイたちは、ローマ時代に建設されたローマ街道の効果について丁寧な事後分析をすることでヒントを得て限界効用・消費者余剰の概念を作り出したのではないかとさえ私には思えてくる。

* Duipuit, A.J.E.J(1844) De la mesure de l’utilite des travaux publics, Annales des Ponts et Chaussees, II-t.8 (栗田啓子訳『デュピュイ 公共事業と経済学』日本評論社、2001年)


森杉 壽芳 (経済学研究科 特任教授)

専門分野: 費用便益分析,応用ミクロ経済学
関心テーマ: 公共事業評価、地球温暖化経済評価、交通料金、国土計画、交通計画