足を使って「地域を見つめること」

壽岳文章・章子著『紙漉村旅日記』明治書房、1944年(昭和19年)(東北大学図書館中村文庫蔵)

 地域の歴史や話題を舞台化する演劇やミュージカルは、日本全国至るところでおこなわれている。もちろん、劇団の芸術作品の発表ということもあるが、そのほかにまちづくりの一環として市町村から助成を受けたり、学校が表現や郷土の歴史教育などの側面からもとりあげたりしている。私たちも多分に漏れず、仙台市太白区で「物語のあるまちづくり」を目指して区民の創作劇を続けている。

 さて、地域の歴史を戯曲化する場合には、文献に現れる事実を描くことだけでは実に味気のない、つまらない舞台になってしまう。芝居が芝居たるゆえんは、明らかにフィクションが前面で活躍しなければならない。矛盾しているようだが、フィクションがいかにリアリティを持つのかが大切なのである。畢竟、脚本家はフィクションを作り上げるために、歴史書から民族・風俗、伝説から民間療法などなど、さまざまな資料に首っききにならざるをえない。当時の新聞をマイクロフィルムを高速で流すように記憶の中に入れる。しかも紙面は一面だけでない、むしろ三面記事から広告の方を重視するのである。それでも当時の生き生きとした資料が見つかったときなどは、ワープロを何日も離れて、読み入ってしまう。日記などを見つけてしまったら、洞窟で宝物を見つけてしまうようなものである。  

 仙台市太白区にある柳生という地区は、藩政時代から盛んに紙漉がおこなわれており、明治末期には柳生地区ほぼ全戸で紙漉が営まれていたようだが、現在ではただ一戸でおこなわれているにすぎない。この紙漉き村を舞台とした創作戯曲の上演にあたって、ある方からのお話で、遅まきながら手にしたのが本書である。英文学者の壽岳文章氏が昭和12年から15年にかけて有栖川宮記念学術奨励金をうけ、夫妻で全国の紙漉の現場を訪ねた日記である。 

 紙漉きは、山間の地区でおこなわれているのが多く、調査が昭和13年から15年であれば交通の便も良いはずがない。ましてやこの日記にもあるようにガソリンの供給もままならぬ当時、東北から九州までの紙漉き村を歩き、文献調査と聞き取り調査、そして現場の貴重な記録を残している。ちなみに宮城県では丸森と柳生(当時は名取郡柳生村)を訪れている。 紙漉は農閑期の副業として、また耕地の少ない山間部の貴重な収入源として綿々としておこなわれてきたのだが、この時期、産業化の波に洗われ、先細りする産業の生き残りをかけて、地元の志のある人や役人の指導で近代化が行われ始めていた。

 和紙産業にとっては大きな転換期にさしかかっていたのである。伝統的に楮などの原料を木灰で煮、川で晒し、石や木の台で叩き、漉いた後は板貼りで天日干しにされていたのだが、原料にパルプの混入、苛性ソーダで煮、カルキで漂白し、鉄板に貼り付けられ、ヒーターで乾燥されるようになる。この「改良」によって和紙の質が全く変わってしまっていることが日記には記されている。

 本書には、戦時色の濃くなる時局に煽られ、伝統工芸に行き着かない伝統産業の侘びしさが、貧しい山間部の人々の言葉や仕草、生活の機微とともにリアルに書き記されていて、読み終えた私たちには、地域の産業を考えていく場合、「時局」にとらわれない、しっかりとした歴史の調査と、地元に足を運び、地域を見つめることの必要性を示している。それはそのまま脚本家の作業の戒めともなっている。

石垣 政裕 (経済学研究科 講師、NPO法人劇団仙台小劇場 劇作家・演出家)

専門分野:応用情報学

コークの味は国ごとに違うべきか

パンカジ・ゲマワット著(望月衛訳)『コークの味は国ごとに違うべきか』(文藝春秋、2009年)

 トーマス・フリードマン『フラット化する世界』は非常にインパクトの強い本であったのだろう(確かに面白い良い本だった)。「フラット化」というキーワードにひっかけた(「フラット化している」、「フラット化していない」の賛否の双方から参入している)本が続々と出版されたことを書店の棚や新聞広告で知るたびに『フラット化する世界』自体のインパクトを微苦笑と共に感じてしまう。

今回取り上げるパンカジ・ゲマワット『コークの味は国ごとに違うべきか』も、そのような「フラット化」論争(?)の中の1冊と見ることもできる。そう考えると紹介としては便利かもしれないが、実際は、本書は「フラット化」論争に便乗した出版物ではない(著者や出版社の真の意図は分からないが、本書の学術的な貢献は大きいと思う)。

 『コークの味は国ごとに違うべきか』というのは確かに巧みに人目を惹くタイトルであるが、これは訳者の技巧のなせる結果であって、原著タイトルは、直訳すると例えば『グローバル戦略の再構築:差異が依然として問題となる世界で国境を越えること』である。本書のコンテンツは、著者ゲマワット教授のハーバード・ビジネス・スクールでの講義や学術論文を下敷きとしている。

 本書は国際経営戦略についての既存の研究成果をふまえた著者の実証研究の成果が示されており、それらを基礎として国際経営戦略策定の指針が示されている。しかし、本書は無味乾燥な学術書ではなく、多くの多国籍企業の事例が、成功例・失敗例ともにふんだんに盛り込まれており、刺激的な読書体験をもたらしてくれる。

 コカ・コーラの過度の集権化とそのゆり戻しとしての過度の分権化(本書では適応とよばれる)、フォードの米欧間の集権化の失敗、ABB(アセア・ブラウン・ボヴェリ)の有名な「マトリックス組織」の失敗、フィリップスの過度な適応による失敗といった諸事例が国際経営の難しさをリアルに伝えてくれる。いずれの失敗も利益や株価やシェアの低下をもたらした。もちろん、多くの成功例も示されており、そこにはIBM、P&G、トヨタ、GEメディカルズなどの先進国企業だけではなく、タタ・コンサルタンシー、ランバクシー、コグニザント、セメックスといった新興国企業も数多く含まれている。

 本書の主張を要約すると以下のようになるだろう。世界の現状は、各国のつながりが強まる傾向がある一方で、各国の違い(文化、制度、地理、経済)が依然として大きい「セミ・グローバル化」である。そのため、「世界がフラット」と考えて多国籍企業がグローバルな集約(製品の画一化とそれに伴う生産拠点の集約や本国のビジネスモデルの単純な移転)を行うとコカ・コーラやウォルマートのような多くの失敗が生まれる。したがって、各国の違いに対する対応は依然として重要である。そのような対応策には、「適応」「集約」「裁定」という3つの方法がある。

 「適応」はそれだけを行うと規模の経済が生まれないため、企業は適応のための多様化がもたらすデメリットを減じるための手段もあわせてとる必要がある(製品の規格を単純化し、多様化のコストを削減するなど)。「集約」はグローバルに行うのでなく地域的に行うことが成功につながることが多い。「裁定」とは、例えば低コスト国での生産のことを指す。優れた多国籍企業(IBM、P&G、タタ・コンサルタンシーなど)は「適応と集約」や「適応と裁定」などの3つの方法のうちの2つを組み合わせることに成功している。3つの方法をすべて追求することは、GEメディカルズのような優れた企業がさらに恵まれた条件の下に置かれた時にしか成功しない(競馬の三連単を当てるより難しい、と著者は警告している)。そして、企業の海外進出の目的はあくまでも利益の増大(価値創造と言われている)であり、売上増加自体や複雑な組織作り自体が国際化の目的ではないことが再三述べられている。

 国際経営史を専門とする評者の研究にとっては、「クロスボーダーでの業界と競争力の分析」の枠組み提示が非常に参考になった。この枠組みは、ポーターの「5つの力」分析や既存の多国籍企業論の成果(集約化への適性指標として研究開発費や広告宣伝費を用いる)を基にしている。さらに著者が、上記の分析のための実際のデータを集める「だけ」でも実際には大変な作業であると述べていることは大変興味深かった。自分がそのような作業のごく一部にしかあたらない作業についても大変苦労しているためである。

 著者はまた、戦略策定に先立って自社に関わるデータに基づいた分析を行わないことを「無謀」と言っている。これは一見当然のようであるが、多忙なビジネス現場で、すでに行ったことの記録とさらにその分析検討に時間が使われない可能性も想像することができる。そのような問題の解決のために企業と研究者が協力できる余地があれば望ましいことと思われる(本書によると、欧米多国籍企業とハーバード・ビジネス・スクール教授の間ではそのような協力があるようだ)。

 最後に。「コークの味は国ごとに違うべきか」という問いへの解答は、本書第4章の中で示されている。すでにお分かりの方も多いとは思うが、気になる方は確認していただきたい。その他に、「ハーゲンダッツはヨーロッパの会社ではない」という面白い情報も示されている。

菅原 歩 (経済学研究科 准教授)

専門分野:グローバル経営史
関心テーマ:資源多国籍企業史、国際金融史

経済学部の学生が数学を学ぶには

藤田岳彦著『ファイナンスの確率解析入門』講談社, 2002年

 数学ってどうやったらできるようになるのだろう?別に数学自体を志していなくとも、経済学や物理学、工学などの数学の単なるユーザーであっても疑問に思うことがあります。これは、学生さんのみならず、教員だって疑問なことです。そんなことを考えていると、『ファイナンスの確率解析入門』という本は、一つの回答を見せてもらった気がします。

 この本は、私が東北大に赴任して初めて受け持った2009年度の学部ゼミにおいて教科書として用いた本です。著者は高名な数学者ですが、実は、(測度論を用いていないという意味で)わざと厳密な数式の展開をしていません。「わざと」と書いたのは近年の数理ファイナンスで用いられる確率論はとても高度化しており厳密に式展開をすると、非専門家が数理ファイナンスを学ぶことが困難になることを理解して書いておられるからです。そのため、序文を読むと、『著者も「厳密な数学」をおろそかにしているのではなく、それに入る前の動機づけや準備を入念に行えといっているだけなのである』とあります。

 私のところのゼミ生も、数学の本を読むのが初めての経験だったらしく、読み始めてすぐはよく分からないという感じでしたが、ある時頑張ったら式が追えると思ったらしく、むしろ難しいはずの後半はどんどん読んでいました。一つの経験則からいえるのは、まず著者の言うように動機づけのために少し不慣れなものでも頑張って計算してみる。そのあと、少しいい加減にやった箇所をちゃんとやったらどうなるか考えてみる。この繰り返しこそが、私の経験からも、数学を理解するいちばんよい方法ではないかと思います。

 本を開けてみたらわかるように、計算はちょっと大変なのだけれども、頑張れば、かなりの部分は学部の学生さんでも追えるようになっているのはとても嬉しいです。それっぽく書いてあり、でも気がつけばブラック・ショールズ式と呼ばれるオプションの価格公式の導出までは掲載している本は、本屋さんへ行くと他にもあるかもしれません。が、この本の面白いところは、確率解析と呼ばれる、現代的な確率論のメイントピックの入門部分において重要な概念はほとんど包含しているところにあります。確率解析を学んだときに知らないといけないこれらの知識はたくさんあります。

 ブラック・ショールズ式を導出しようとすると、これらの物は一通りすべて知らないといけません。それを一つずつ、分布計算を軸に導出してあり、単に、ブラック・ショールズ式を導いて終わりとはしないところに著者のこだわりが見えます。また、前半の離散モデルと後半の連続モデルの対比も大変面白く、見通し良く確率解析を学べるのではないのでしょうか。こういう本をしっかり読んで基礎的な体力をつけることができれば、将来的にはより深く確率論や数理ファイナンスを理解できるのではないかと思います。後半部では、著者の提案した経路依存型商品の導出についても述べてあり、入門レベルから研究レベルまでの確実な橋渡しとなるものと思えます。

室井 芳史 (経済学研究科 准教授)

専門分野: 金融工学・数理統計学
関心テーマ: デリバティブの価格評価の数理

「会計とは何か」を考える有力な一つの手がかり

井尻雄士著『会計測定の基礎-数学的・経済学的・行動学的探求-』(1968年,東洋経済新報社)

 数年前の台湾会計学会のおりに,私は当時アメリカ会計学会会長であったSS先生と約10年前に続いて2度目の面談の機会を得た。私は,ご指導下の院生達に指定される本についてSS先生に質問した。SS先生は,井尻(1968)の下記「原著」,ご自著,バーナード著『経営者の役割』など6点をリストされ,これだけでも数ヶ月を要するとコメントされた。

 井尻(1968,序文)では,少なくともつぎの3点が言われる;a.行動科学,OR,それに当時出始めの電子計算機などから会計へのチャレンジが盛り上がっている情況のなかで,この情況に会計に携わる者一切を含む会計人達が対応するにあたり,目先の不平不満へのつじつま合わせに追われる会計に陥ることのないように,これまで会計が作りあげてきた基礎の研究こそが肝要であること,b.会計には会計の対象である経済や経営の現象に対する固有の見方,考え方,組織立て方があり,会計は学問的にも独自の哲学をもっていること,それに,c.ある分野の基礎を探求することは,いかなる科学者にとってもそのこと自身に本源的な意義が存すると同時に実用的な価値をもたないわけではないこと。

 井尻(1968)は,全8章で構成され,全体を通じてこんにちでも実に新鮮な思考や概念を用いながら会計測定の基礎が説明される。特に印象的な章は,つぎの4つである;(1)会社の財政状態と経営成績を「本体」,会社の貸借対照表や損益計算書から成る財務諸表を「写体」,とそれぞれを表現しながら会計での言語や測定の意味が説明される第1章,(2)「分類的複式簿記」と「因果的複式簿記」とによる会計記録が記述される第5章,(3)客観性(ないしは, 検証可能性)ついて,これを知覚する人間から独立した客観的要素の存在というよりも,観察者や測定者のある集まりのなかでの合意(consensus)と考える方が現実に即しているとの思考によりながら,「信頼度」は「客観度」と「信頼偏差」との和であると説かれる第7章,そして,(4)「社会は衣服の上につくり上げられたものである。人間の俗界的な利害関係はすべて衣服を通じて互いにホックやボタンで結びつけられているのである」(CARLYLE,T., Sartor Resartus (仕立て直された仕立屋))(1834, p.51)を引用しながら,衣服すなわち会計の存在なくして私たちの複雑な利害関係を結びつけることが不可能なのにもかかわらず,その担い手である仕立屋すなわち会計人に向けられてきた偏見や不公平の存在を指摘して,会計人への再評価を社会に訴えられる第8章。

 井尻(1968)は,「原著」と称されているIJIRI,Y., The Foundations of Accounting Measurement: A Mathematical, Economic, and Behavioral Inquiry (Prentice-Hall, Inc., 1967)の修正加筆版である。私には,まれに「原著」の方が説得力の強いことがある。その意味でも,同一著者による井尻(1968)と「原著」との双方を私は推薦したい。


藤井 建人 (経済学研究科 教授)

専門分野:国際会計,米国会計史
関心テーマ:コ-ポレ-ト・ガバナンス,財務会計制度の国際比較

歪められた会計数値

『会計トリックはこう見抜け』,ハワード・シリット著,菊田良治訳 (日経BP,2002年)

 本書は,会計操作に関する米国の事例を分析したものである。著者は会計操作を「財務粉飾」と称している。紹介されている財務粉飾は,架空取引を用いた粉飾ではなく,取引に対して不適切な会計処理を行い,売上高や利益を操作する事例が多く集められている。本書でも述べられているが,財務粉飾は害のないものから詐欺的なものまで幅広く存在し,程度の差こそあれ,小企業から大企業まであらゆる企業で行われている。著者は詐欺的な財務粉飾がいかに投資家を不幸にするかを力説し,その発見手法を伝授している。 

 財務粉飾のような経営者が会計数値を歪める行為について,大学での講義ではふれられることはめったにない。会計教育といえば簿記から入る場合が多い。そこでは取引が与えられ,「あるべき」会計処理があり,簿記のシステムを通じてあたかも自動的に財務諸表が作成されるように説明される。同一取引に対して,認められない処理も含めた様々な会計処理例を示して,採用する手法に応じて異なった会計利益が計上されるといった解説は余り行われない。 

 しかし現実には会計数値は自動的に生成されるわけではなく,会計処理には経営者の意図を介入させることが可能である。というよりむしろ,財務諸表の作成にはありとあらゆることに経営者の見積もりや判断が不可欠である。例えば,資産の耐用年数や貸倒の見積もりを一つとっても,それは理解できるであろう。 

 そのような会計の特徴を理解しつつも,経営者が相対している利害関係者は,売上高や利益の安定した成長を望む。そのなかでも投資家は強い影響力を持ち,予想された会計利益を達成するか否かを特に注目している。本書では,経営者がなぜそのような財務粉飾に手を染めたかは詳しくは解説されていないが,多くは投資家の期待を達成するためであることは想像に難くない。米国では1株当たり利益が市場の予想から僅かに1セント欠けるだけで,市場で厳しく評価される現実からも,経営者のプレッシャーの大きさは理解できる。言い換えれば,それほど会計数値は投資家で重視されているのである。 

 しかし,本書で紹介されたような財務粉飾が頻発すれば,会計に対する信頼性が失われる。極端な想像かもしれないが,会計がなんの参考にもならない不要なものと見なされてしまうこともありうる。そうならないためにも,会計に携わるすべての関係者の不断の努力が求められている。そこで原動力となるのは,本書の著者のように,粉飾は許されないという姿勢ではないだろうか。


榎本 正博 (経済学研究科 准教授)

専門分野: 財務会計
関心テーマ: 会計処理方法の選択

童話に学ぶ経営学

『クマのプーさんと学ぶマネジメント―とても重要なクマとその仲間たちが、とても重要なことを初めて体験するお話』(ロジャー・E・アレン著、新田義則訳、ダイヤモンド社、1996年(新装版2003年))*

 本書は、A.A.ミルンの童話『クマのプーさん』(1926-)の物語を題材に、目標設定、組織化、動機付け、権限委譲、リーダーシップ等、組織のマネジャー(管理者)が担うべき主たる職能について解説した異色のマネジメント本である。著者のロジャー・E・アレンは経営コンサルタントでありP&G等の大企業でライン管理者を務めた経歴をもつ。本書の刊行後も『クマのプーさんと学ぶ問題解決』(1995)、『クマのプーさんと学ぶ成功の法則』(1997)の著書がシリーズ化され、原著は最初の2作で公称20万部以上売れる人気作となった。

 さて本書では『クマのプーさん』(石井桃子訳)で描かれた、プーやトラー、コブタなどお馴染みの森の仲間たちが登場し、彼らのエピソードが一節ごとにマネジメント上の教訓(?)とともに紹介される。本書には、原作のE.H.シェパードの挿絵(ディズニー版と異なりどこか懐かしく淡い味わいがある)も再掲され、原作のもつ詩的な世界観がそのまま伝わってくる。その牧歌的な物語には、もちろん近代的な工場が存在するわけでもないし、学校や教会のような組織が活動しているわけでもない(むしろ原作の書かれた背景には当時の英国社会で急速に進む都市化への抵抗もあったといえる。自然への憧憬の念はミルンの同時代のエドワーディアンの知識人に共有されるところのものであった)。

 森の仲間たちが過ごすのは変哲のない日常のゆるやかな時間であり、めまぐるしく環境が変化し時間に追われる経営管理の世界とは縁遠いように思える。また、はちみつ好きのプーに代表されるように、多くの登場人物(動物)は勝手気ままに生きていて、働くことはとても嫌いなようにも見える。まさにマグレガーのⅩ理論(人間は本質的に怠惰で外的な報酬等がないと働かないという伝統的な管理論の前提)がそのまま適用され得るようなキャラクターばかりである。

 しかし仲間たちが森で冒険を企てるとき、一時的な「組織化」が起こり、「計画」や「リーダー」の要素がそこに備わる。なかでもクリストファー・ロビン(プーの一番の友人で心優しい性格の男の子。ミルンの同名の息子がモデルとなっている)率いる北極探検隊のエピソードは、ミルンの描いた人間性あふれる、他者へのやさしいまなざしとともに、個性尊重のマネジメントについて示唆するところの多い格好の素材である。たとえば、「クマなんてものに北極を発見できますか」と不安がるプーに対して「もちろん、できるさ。ほかのみんなだって、できるさ。探検なんだもの」と励まし、プロジェクトに魅力と意義を感じさせるロビンは部下の動機付けに長けたリーダーである。

 またロビン曰く「ぼくね、鉄砲だいじょうぶかどうか、しらべるから、きみ、そのあいだに、みんなにしたくをするようにって、いってきてよ」とプーに任務の一部を委譲するのは、本人に時間的余裕を生み出すともに、部下に成長の機会をも与えるよいマネージャーのお手本であり、さらにプーが川で溺れた仲間を助ける際にたまたま使った棒を、地面に立て「のーす・ぽール、プーがこれを見つけた」とメッセージを結んであげたのは、部下の手柄を横取りしないで正当に認める有能なリーダーシップの典型である、というように。

 本著者のアレンのこうした観点は(やや解釈に誇張された印象が否めないが)、マネジメントとは、強権的に他人を働かしめるものという旧来的な観念を揺るがし、メンバー個々に目標への貢献意欲をもたせ、コミュニケーションを通じてさまざまな働きかけを行いながら目標達成へと導くもの、という近代組織論のエッセンスをあらためて伝えるものである。著者の力説する、ボトムアップ的にメンバーの協働を鼓舞し目的を遂行する、というリーダーの役割モデルはC.I.バーナードの『経営者の役割』(1938)を髣髴(ほうふつ)とさせる。

 このように見てくると、人々の協働体系をデザインするマネジメントは、何らかの目的をもった組織がつくられるかぎり、その組織を有効に機能させるための必要条件であり、たとえ子どもたちの遊び集団であってもその要件は変わらないということが分かってくる。子どもたちは遊びを通じ、経験的に動機付けや権限委譲などの適切なリーダーシップを学び取っていくのかも知れない(企業のリーダーシップ研修で、よくアスレチックゲームなどの集団体験を通じたプログラムが設けられるのも首肯できる)。

 もっとも原作では、頼れるクリストファー・ロビンをのぞけば、プーとその仲間たちは、そそっかしく思惑通りに事が進まないで、失敗してしまう場面が多い。完璧でないこと、そこに愛らしさ、微笑ましさがあり、この童話の魅力となっている。本著者のアレンは、失敗から学ぶこともマネージャーの重要な役割だからねとフォローするのだが、プーにはそのような機敏な学習能力を期待したくない、と思うのは筆者だけであろうか。

*原著 Roger E. Allen. 1994. Winnie-the-Pooh on Management: In which a Very Important Bear and his friends are introduced to a Very Important Subject. Dutton/Penguin USA.
訳書・書籍詳細(ダイヤモンド社)
http://book.diamond.co.jp/cgi-bin/d3olp114cg?isbn=4-478-35049-3


高浦 康有 (経済学研究科 准教授)

専門分野:経営学原理、企業倫理
関心テーマ:経営学の研究・教育方法論

不況期に静かに台頭する新たな「優良企業」

 スモール  ジャイアンツ
『SMALL GIANTS』 ボー・バーリンガム著、上原裕美子訳(アメリカン・ブック&シネマ、2008年)

 この本は、アメリカの各地に静かに台頭しつつある新しい優良企業14社を扱った最前線のフィールド・レポートである。取り上げられている米国各地の企業は、「小さな巨人」というタイトルが示すように無名の、日本人にはなじみの少ない企業が多い。なぜこれらの企業が「小さな巨人」なのかと、疑問に思われる読者も多いかもしれない。しかし本書を読み進めるうちに、その疑問は氷解し、疑問は魅力に変わっていく。この本が2005年に出版されて以来、ベストセラーを続けている理由も納得がいく。 

 本書を貫いている本質的な問いは、企業の成功についての社会通念にたいする根本的な疑問である。「事業は成長しなければ破滅あるのみ」、「企業は大きいほうがいい」、「会社は株主の利益のために存在する」、「事業は利益をあげる手段である」といった、ビジネスの世界で常識とされてきた通念がことごとく爼上(そじょう)に載せられ、それに代わる企業像が「小さな巨人」として描かれていく。

 著者のボー・バーリンガムによれば、事業は利益をあげるための単なる手段ではなく、それ自体に他社にはない魂がある。企業を真に優れた存在にし、取り組む価値のある存在にするのはその事業の魂だ。そうした独自の魂は、人間的な規模を越えて拡大すれば、希薄化してしまう。「成長のための成長」という考え方が経営者を支配するようになり、会社は社員の幸せのためにあるという原点は、いつのまにか雲散霧消してしまう。ビジネス界での社会通念を疑い、事業の魂を大切に育み、株主以外の利害関係者との親密な関係性と絆を通して独自の魅力と優位性を築いていく企業群を著者は「小さな巨人」と呼んでいる。

 この本は、昨年秋のリーマン・ショックに端を発する世界的不況の前に出版されたものではあるが、わが国では昨年末に翻訳が出版され、広く読者を獲得するに至っている。金融資本主義が米国を中心に世界を席捲していたまさにその時期に、こうした地味な本がベストセラーとなっていたことに、私はある種の希望を感じる。また時を同じくして、わが国でも坂本光司著『日本でいちばん大切にしたい会社』(あさ出版)などがベストセラーとなり、地味な地方の中堅・中小企業の経営に改めてスポットライトが当てられていることを大変喜ばしいことだと思う。多くの地域企業の関係者に一読をお薦めしたい私の大切な一冊である。


大滝 精一 (経済学研究科 教授、地域イノベーション研究センター長)

専門分野: 経営政策
関心テーマ: 企業のイノベーション戦略、地域企業の経営戦略