経済学の創出

『ジェームズ・ステュアート『経済学原理』草稿 ――第三編 貨幣と信用』奥山忠信・古谷豊 編著、御茶の水書房、2006年

 かなり昔のことである。1745年10月、イギリス北部にあるスコットランドの首都エジンバラ。その中心部で、ステュアートはそのとき朝食をとっていたそうである。彼はすでに、彼の人生を一変させることになる「賭け」に出る決意を固めていた。

 32歳の誕生日をちょうど迎えつつあったステュアートは天賦の才能に恵まれ、有能な法律家かつ大政治家であった祖父の生まれ変わりであると評されていた。しかしそのとき彼の将来は、のがれがたい閉塞感で覆われていた。というのも当時スコットランドでは、彼と対立する政治グループが権力中枢を握り、ロンドンの政権と結んで徐々に盤石な体制を築きつつあったのである。

 ところがステュアートにとって幸か不幸か、そのときスコットランド北部から大暴風雨がやってきた。1745年のジャコバイトの乱、通称「フォーティー・ファイブ」。18世紀イギリスでの最大の革命運動である。イギリスの前の王朝の子孫が王権を主張しスコットランドの一部の勢力を従えて9月にはエジンバラ市に乗り込み、12月にはロンドンのわずか200キロ北にまで迫るほどの勢いをみせたのだった。

 1745年10月、エジンバラ中心部。ステュアートはこの暴風雨に自らの人生の大逆転を賭け、革命勢力の側についたのである。ただ、洞察力に秀でたステュアートには、この賭けは勝つ見込みが小さいと予め分かっていたふしがある。彼にとってそれだけ閉塞感が強かったのか、あるいは自らの能力への過信があったのか。

 ともあれ革命勢力はまたとない人材を得た。声明文や宣言書は彼によって起草され、また月末にはフランスのルイ15世と交渉するためにヴェルサイユとパリに向けて発つ。革命軍がイギリス軍に敗れて、ステュアートの壮大な逆転劇が水泡に帰するのはその翌年のことであった。ステュアートは反逆罪として市民権を剥奪されてしまう。政治家として、スコットランドのため・イギリスのために力を尽くすという将来の夢はついえた。

 ステュアートはその後、自らの軽率な判断を心から反省することになる。政治家として・法律家として自らの才能を活かす道を断たれたステュアートが、別の形でスコットランドないしイギリスに寄与しようとしたのが『経済学原理』の執筆なのであった。イギリスで初めて「経済学(political economy)」を題名に冠した書であり、その九年後のスミスの『国富論』とともに経済学の近代的誕生を果たした古典である。誠に、何が幸いするかは分からない。我々がこの古典を手にできるのも、ステュアートが賭けに敗れたおかげである。

 内容はいくつかの重要な点で『国富論』とは対極にあった。いや、むしろスミスが『経済学原理』の理論に対置させつつ『国富論』を仕上げた、というのが実相である。1767年刊の『経済学原理』と1776年刊の『国富論』。経済学という科学は初めから、いわばその後の様々な学派間の論争の火種を抱えつつ、誕生したのだった。

 本書はその経済学の一方の古典である『経済学原理』の理論体系がどのようにしてできあがったのかを明らかにする研究である。私は古都・エジンバラに渡り、かつてステュアートが朝食をとっていたタウン・ハウスのすぐ近くに居を構えて連日・連夜ステュアートの自筆草稿をときほぐしていった。国事犯の身であることを忍びつつ、新しい科学「経済学」を一からつくろうと志したステュアート自身の気持ちになったつもりで。結果としてこの草稿は『経済学原理』を読み解くうえでとても重要な草稿であることが明らかとなった。草稿に散らばる大小様々なヒントをつなぎ合わせていくなかで、ステュアートが従来の貨幣論を受け継いでそこからどのように大きな展開を果たしたのかが浮き彫りにされてきた。この貨幣論の発展こそが、彼の名高い動態的な貨幣的経済理論を生むにいたったポイントだったのであり、それに伴って彼の経済学体系の構想は今日の形へと組み換えられたのであった。


古谷 豊(経済学研究科 准教授)

専門分野:経済学史
関心テーマ:重商主義・古典派