日本のアルゴノーツは日本経済の救世主となるか?

アナリー・サクセニアン『最新・経済地理学』(酒井泰助監訳、2008年、日経BP社)

 アナリー・サクセニアンのRegional Advantage(邦訳『現代の二都物語』大前研一)に出会ったのは大学院生のころであった。この本ではシリコンバレーとボストンのルート128という二つの地域の比較分析をし、選択された技術、分業構造、そして文化社会システムによって、両地域が急激に変化する環境の中で対照的な道を歩んだ様を描きだしたものであった。1980~90年代に急激な環境変化に対し巧みに適応したシリコンバレーの分散的産業システムを目指して、世界各国でさまざまな取り組みがなされたことは記憶に新しい。

 あれから11年、サクセニアンが上梓したのが、The New Argonauts: Regional Advantage in a Global Economy(邦訳『最新・経済地理学』)である。本書の対象は地域ではなく地域間を移動する人々(帰国留学生)である。ちなみに本書のタイトルである「アルゴノーツ」というのは、ギリシア神話にでてくる船「アルゴ」に乗船する50名の勇士たちの呼び名である。彼らは金の羊毛を探す旅にでて、困難を乗り越えながらも東方の国の女王メディアの助けを借り、それを達成し、彼女を連れて国に帰る。本書では、海外(ここでは米国)で学位やキャリアを積んだ後、そこで培った技術やネットワークを母国に呼び込む帰国留学生を「アルゴノーツ」になぞらえている。

 ハイテク産業が地域的に集積するという傾向があることはこれまでも指摘されてきたことであるが、産業全体の拡大に伴って今やそのいくつかの機能は世界各地で分業されている。その中心がシリコンバレーであることは(サクセニアンは)変わらないとするが、周辺部や特定部分の担い手となっているのは、台湾、イスラエル、中国、インドといった国々である。これらの国々は、これまで安い労働力を武器に成長をしてきたという見方をされてきた。しかしこれらの国々は、実は世界に広がるハイテク・ネットワークの重要な一部を担っている。そして、彼らをハイテク・ネットワークの一員に押し上げたその原動力こそ現代のアルゴノーツである帰国留学生たちであるというのが本書の主張である。彼らは母国でビジネスを興しながらも、シリコンバレーの技術や市場と接点を持ち続け、シリコンバレーのやり方を(アレンジをしながらも)母国に導入し、新たな制度やルールを生み出そうとしているのである。

 しかし彼らの帰国を母国は必ずしも温かく迎え入れたわけではない。整わないインフラ、矛盾に満ちた法制度、未だ低い教育水準、未整備な資金調達制度、さまざまな偏見など、彼らの歩む道には問題が山積していた。むろん台湾のように政治家と帰国留学生がビジョンを一つにする国もあったものの、多くの場合、アルゴノーツが待ち受ける道は茨の道であった。それでも彼らが戦い続ける様が本書には淡々と描き出されている。

 さらに本書は日本、フランス、韓国を上記の4国と対照的に、現代のアルゴノーツたちの才能を生かせずにいる国として取り上げている。確かに日本の組織では海外留学を一つ「勲章」としてしか見なさず、帰国留学者たちが海外で学んだ経験がなかなか仕事に生かせないと嘆く声はよく聞かれる。またある調査によると日本人留学生が留学後、留学先で就職するのはごく数パーセントで、多くがそのキャリアを武器に外資系企業や大企業への就職を希望するという。日本にはアルゴノーツたちを文化や社会によって窒息させてしまう何かがあるのであろう。サクセニアンが懸念するように、これで日本は世界のハイテク・ネットワークの中で生き残れるのであろうか。

 実は筆者はサクセニアンの描き出すアルゴノーツたちを介した発展が機能するのは、世界の中で一部ではないのかと思っている。アルゴノーツたちの帰国を促したのは、ITバブルの崩壊、自国の産業レベルの向上などである。しかしそれ以上に彼らが母国に戻ろうと決意したのは、母国愛といった単純なものだけでなく、移民として米国社会に100%受け入れられることはないという諦念と満たされない思いもその根底にある。自分の存在をかけているからこそ、母国に世界で評されるシリコンバレーのようなシステムを作り、シリコンバレーと母国をつなげ、母国での可能性に賭けて戦うのである。平和で豊かな故郷をもつ日本人にこのような思いはあるであろうか。確かにサクセニアンが示唆するように国がもっと支援すれば、日本にはアルゴノーツたちをもっと活躍させる余地があるかもしれない。ただ、本書に出てくる他国のアルゴノーツのさまざまな奮闘を読む限り、それだけでは不十分であろうと思わざるをえないのである。

 日本が、今後経済発展を図っていくためには、シリコンバレー・モデルの伝導者であるアルゴノーツを介した発展を図るこれら国々とは異なるロジックが必要なのかもしれない。シリコンバレー・モデルは確かに魅力的ではある。しかしすべての国に万能薬というわけではない。そんな思いを強くした一冊である。


福嶋 路 (経済学研究科 准教授)

専門分野: 地域企業論、企業戦略論、イノベーション論
関心テーマ: イノベーション、技術の商用化、産学連携、地域振興