古典を読む

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』カール・マルクス著/植村邦彦訳(平凡社・平凡社ライブラリー、2008年)

 経済学部で「マルクス」といったら、やはり『資本論』ということになるのだろうか? 

 でも、19世紀フランス社会経済史を専攻するぼくにとっては、マルクスといったら通称「フランス三部作」、つまり『フランスにおける階級闘争』、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』、そして『フランスにおける内乱』である。これは、あるべき社会システムをめぐって激動する19世紀フランスで勃発した二つの大事件(1848年の二月革命、1871年のパリ・コミューン)を、隣国イギリスでリアルタイムで「経験」したマルクスが著した、いわばルポルタージュである。

 1848年、フランスでは二月革命が生じ、男子普通選挙制度が導入され、社会主義者や労働者代表が臨時政府に参加するなど、さまざまな「実験」がなされた。ところが、その年12月に実施された大統領選挙で圧倒的な支持を集めて当選したのは、かのナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・(ナポレオン・)ボナパルト(のちの皇帝ナポレオン三世)だった。そして、彼は、社会主義者の弾圧や男子普通選挙制度の事実上の放棄など、二月革命の成果を否定する方策を次々に打ち出し、さらには1851年12月のクーデタによって共和制そのものを葬りさることになる。この歴史のトレンドをサーベイし、その背景にあるメカニズムを分析したのが、「フランス三部作」のうち『階級闘争』と『ブリュメール』である。

 今回、このうち『ブリュメール』が、装いもあらたにポケット版として刊行された。

 この『ブリュメール』だが、かつて「例外国家論」なる理論を提示している書としてあがめたてまつられていた時代がある。つまり、マルクス主義国家論によれば、すべて国家は(地主、資本家、労働者など)特定の階級の利害を体現する存在である。ところが、実際には、国家は特定の階級の利害を代弁しているようにみえないことが多い。これはつまりマルクス主義国家論は間違えているということなのか、それとも……という文脈のなかで、大略「ルイ・ボナパルト支配下の国家は、さまざまな階級の利害=社会から自立し、一種例外的な超然権力としてそびえたっていた」という『ブリュメール』の所説が「例外国家論」と名づけられ、処方箋として着目され、古典として読み継がれてきたわけである。 

 しかし、ルイ・ボナパルト政権の経済政策をみれば、マルクスの所説はあたっていないことがわかる。それは一貫して工業化&近代化&経済成長を志向していたであり、そこではなによりもまず(いわば)進歩的な資本家の利害が重視されていたのである。

 それでは、今日もはや『ブリュメール』は読むに値しないか?、古典は本棚で眠っていればよいか?、といえば、そんなことはない。マルクスは、二月革命に対して、それなりの期待をかけた。そして、みずからの期待が裏切られてゆくなかで、とりわけルイ・ボナパルトに対する彼の憤りは高まってゆく。それゆえ『ブリュメール』における、ルイ・ボナパルトに対するマルクスの悪口は、天才的な冴えをみせている。なにしろ、いきなり冒頭からして、

 「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は悲劇として、もう一度は笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1793~95年のモンターニュ派、伯父の代わりに甥!」(15頁、ただし訳注を参照しながら第二版の訳文となるように修正した)

である。うーむ、このきらめくような皮肉にみちあふれたレトリックを堪能するだけで1575円(税込)は惜しくない、こんな古典の読み方があってもよい……と、ぼくは思うのだが、さてどうだろうか。


小田中 直樹 (経済学研究科 教授)

専門分野:社会経済史
関心テーマ:フランス近代社会、史学史