「政府の無駄遣い」を喧伝することで得をするのは誰か?

井堀利宏『 「歳出の無駄」の研究』日本経済新聞出版社、2008年

 IMF・CIAによると、2008年時点におけるGDPに対する累積財政赤字比率のワースト1はジンバブエで218.2%、第2位は日本で194.9%だそうです。ジンバブエは年率2億3100万%のインフレが発生していることで有名ですね。日本は今のところ社会混乱を起こさず国債を発行できており、ある意味財務省を賞賛すべきなのかもしれませんが、とはいえ、もはや限界に近いというのは多くの方が同意するところだと思います。財政赤字は少子化と並んで、日本の将来が抱える最大の不安の1つと言っていいでしょう。

 なぜ先進国の中で日本にだけこれほど財政赤字が発生しているのでしょうか。歳出が大きすぎるのか、税収が少ないのか。実は、客観的にデータを見れば日本の一人当たり歳出規模は先進国中それほど大きいわけではなく、間接税をはじめとする租税負担率がかなり低いことが分かります(但し、社会保障負担は高齢化のためそれなりに大きい)。どの程度の福祉を目指すのかにもよりますが、他国と比べる限り日本は「税金が安すぎるから財政破綻しようとしている」というわけです。

 と、こんなさらっとした説明で納得されましたでしょうか?「そんなわけがない、役人が無駄遣いをしているからに違いない」、心のどこかでそう思っている人は少数ではないでしょう。「毎日税金を払ってやっているのに安すぎるとは何事か!」と立腹する方もいるでしょう。したがって、視聴率が気になるマスコミも、次の選挙が心配な政治家も正面切って「税金が安すぎる」と言うことはできず、かといって「福祉を削減せよ」というのも不人気なわけで、結局「どこかに役に立たない無駄があるに違いないからそれを削減せよ」というのが無難な落としどころとなるわけです。

 何も役立たない無駄を削減すること自体は、誰にも反対できないよいことです。しかし、何も役立たない無駄「絶対的な無駄」はどれほどあるのでしょうか? 井堀利宏著『「歳出の無駄」の研究』では政府の支出各項目を吟味し、「絶対的な無駄」が最大どれほどあるか大胆に推計しています。たとえば国家公務員の人件費5兆円のうち、現業職員を中心に3000億円程度が節約可能、7兆円の公共事業のうち1割程度が調達方法の改善により節約可能、これらの合計1兆円程度が国の予算の絶対的な無駄であり得ると推計しています。地方政府・独立行政法人などを合わせると最大4兆円程度(GDPの1%)であり得る。これらを出来るだけ削減することは重要ですが、本書はむしろ、「絶対的な無駄が(中略)50兆円以上あるように宣伝し、それを完全になくすことをターゲットにすることは、二重の意味で非現実的な目標設定をすることになる。その結果、誰もそれを真剣に解決しようとしない」と警鐘を鳴らしています。

 本書の分析によると、高齢者への過剰な年金給付、生活保護、外国へのODAなど15兆円程度は給付の便益が費用を下回り「相対的な無駄」であり得ます。実在しない「巨大な絶対的無駄」を削減せよというスローガンは、より金額の大きな相対的無駄から目をそらさせ、また増税も先送りさせる。その結果得をするのは、相対的な無駄が手つかずのままで現在の増税を逃れる現役世代、特に中高年の世代であると本書は看破しています。大きく損をするのは将来世代と若者です。

 多くの若者が「歳出の無駄」の内実を知り、無駄の削減だけを喧伝する無責任さに気がついてほしいと思います。いや、すでに十分内実を知っており、マスコミに冷たい視線を送っているのかもしれませんが…

堀井 亮 (経済学研究科 准教授)

専門分野: マクロ経済学
関心テーマ: 経済成長・所得分布
 

費用便益分析の創始者はローマ人?

塩野七生『すべての道はローマに通ず(上下):ローマ人の物語27、28』(新潮社、2006年)

 本著の上巻では、現在のEU圏に相当する地域における延べ8万キロにのぼるローマ街道網の建設・維持管理を行った目的、計画、設計、施工、意志決定、財源に関する政策を重点的に取り上げている。

 著者は、下巻の「おわりに」において、「社会資本、・・・、インフラストラクチャーを、ローマ史を勉強していくうちに私は、個人ではやれないがゆえに国家や地方自治体が代わっておこなうこと、と考えるようになった。そしてこのインフラを、ローマ人の定義ならば、「人間が人間らしい生活をおくるために必要な大事業」を、ハードとソフトに2分したのである。ハードなインフラには・・・街道、橋、港、神殿、公会堂、広場、劇場、円形闘技場、競技場、公共浴場、(上下)水道等のすべてが入ってくる。ソフトなインフラになると、安全保障、治安、税制、通貨制度、郵便制度、貧者救済のシステム、育英資金制度、医療、教育までも入ってくるのだ。ローマ時代では、これらのすべてを備えていないと都市とは認められなかった。」これは、特に、ハードなインフラは、日本政府が定義している社会資本の定義そのものである。すなわち、社会的に必要であるが民間に任せておくとその供給が著しく不足する資本という定義と全く同一である。

 それでは、ローマ時代において人間が人間らしい生活をおくるために必要なこととはなにか。本書では、アッピア街道をはじめとするローマ街道に対しては、第1に,軍団の敏速な移動、第2に,町の中心までの物資や人々の往来の迅速な輸送、交通の確保、その結果としての市場の成立、経済の発展、生活レベルの向上、第3に、規格の低い既存道路を残し、それに並行する形で規格の高い道路を建設することにより、片方の道路が遮断されても、別の道路を迂回路として使えるというリダンダンシーの確保である、と述べている。これは、第1の軍事目的の重要さの程度の変化はあるが、現在では世界中で共通して合意している道路の社会的便益である。そして、国際技術援助機関をはじめ、すくなくとも、先進国では、道路の投資基準としては、費用便益分析を採用している。しかし、われわれ現代社会は、費用便益分析をローマ人から直接学んだわけではない。

 道路の便益を消費者余剰で計測することを提唱した先駆者は、西ローマ帝国が滅亡して1500年経過した19世紀のフランスの土木技術者デュピュイJules Dupuit*である。20世紀に入りマーシャルが、デュピュイの1844年の論文「公共事業の効用の測定について」を発見し、以後、現代経済学の創始者の一人であるとの認識が普及したといわれている。当時のフランスの土木公団がこのような革新的な経済学を発明することができた背景には、彼らが、道路、運河、水道などとローマ時代とまったく同じインフラを同じ目的で建設維持することの社会的合理性を示す理論を必要としていたからだ。ローマ人の物語を読んで、ローマ帝国の末裔であるデュピュイたちは、ローマ時代に建設されたローマ街道の効果について丁寧な事後分析をすることでヒントを得て限界効用・消費者余剰の概念を作り出したのではないかとさえ私には思えてくる。

* Duipuit, A.J.E.J(1844) De la mesure de l’utilite des travaux publics, Annales des Ponts et Chaussees, II-t.8 (栗田啓子訳『デュピュイ 公共事業と経済学』日本評論社、2001年)


森杉 壽芳 (経済学研究科 特任教授)

専門分野: 費用便益分析,応用ミクロ経済学
関心テーマ: 公共事業評価、地球温暖化経済評価、交通料金、国土計画、交通計画

日本のアルゴノーツは日本経済の救世主となるか?

アナリー・サクセニアン『最新・経済地理学』(酒井泰助監訳、2008年、日経BP社)

 アナリー・サクセニアンのRegional Advantage(邦訳『現代の二都物語』大前研一)に出会ったのは大学院生のころであった。この本ではシリコンバレーとボストンのルート128という二つの地域の比較分析をし、選択された技術、分業構造、そして文化社会システムによって、両地域が急激に変化する環境の中で対照的な道を歩んだ様を描きだしたものであった。1980~90年代に急激な環境変化に対し巧みに適応したシリコンバレーの分散的産業システムを目指して、世界各国でさまざまな取り組みがなされたことは記憶に新しい。

 あれから11年、サクセニアンが上梓したのが、The New Argonauts: Regional Advantage in a Global Economy(邦訳『最新・経済地理学』)である。本書の対象は地域ではなく地域間を移動する人々(帰国留学生)である。ちなみに本書のタイトルである「アルゴノーツ」というのは、ギリシア神話にでてくる船「アルゴ」に乗船する50名の勇士たちの呼び名である。彼らは金の羊毛を探す旅にでて、困難を乗り越えながらも東方の国の女王メディアの助けを借り、それを達成し、彼女を連れて国に帰る。本書では、海外(ここでは米国)で学位やキャリアを積んだ後、そこで培った技術やネットワークを母国に呼び込む帰国留学生を「アルゴノーツ」になぞらえている。

 ハイテク産業が地域的に集積するという傾向があることはこれまでも指摘されてきたことであるが、産業全体の拡大に伴って今やそのいくつかの機能は世界各地で分業されている。その中心がシリコンバレーであることは(サクセニアンは)変わらないとするが、周辺部や特定部分の担い手となっているのは、台湾、イスラエル、中国、インドといった国々である。これらの国々は、これまで安い労働力を武器に成長をしてきたという見方をされてきた。しかしこれらの国々は、実は世界に広がるハイテク・ネットワークの重要な一部を担っている。そして、彼らをハイテク・ネットワークの一員に押し上げたその原動力こそ現代のアルゴノーツである帰国留学生たちであるというのが本書の主張である。彼らは母国でビジネスを興しながらも、シリコンバレーの技術や市場と接点を持ち続け、シリコンバレーのやり方を(アレンジをしながらも)母国に導入し、新たな制度やルールを生み出そうとしているのである。

 しかし彼らの帰国を母国は必ずしも温かく迎え入れたわけではない。整わないインフラ、矛盾に満ちた法制度、未だ低い教育水準、未整備な資金調達制度、さまざまな偏見など、彼らの歩む道には問題が山積していた。むろん台湾のように政治家と帰国留学生がビジョンを一つにする国もあったものの、多くの場合、アルゴノーツが待ち受ける道は茨の道であった。それでも彼らが戦い続ける様が本書には淡々と描き出されている。

 さらに本書は日本、フランス、韓国を上記の4国と対照的に、現代のアルゴノーツたちの才能を生かせずにいる国として取り上げている。確かに日本の組織では海外留学を一つ「勲章」としてしか見なさず、帰国留学者たちが海外で学んだ経験がなかなか仕事に生かせないと嘆く声はよく聞かれる。またある調査によると日本人留学生が留学後、留学先で就職するのはごく数パーセントで、多くがそのキャリアを武器に外資系企業や大企業への就職を希望するという。日本にはアルゴノーツたちを文化や社会によって窒息させてしまう何かがあるのであろう。サクセニアンが懸念するように、これで日本は世界のハイテク・ネットワークの中で生き残れるのであろうか。

 実は筆者はサクセニアンの描き出すアルゴノーツたちを介した発展が機能するのは、世界の中で一部ではないのかと思っている。アルゴノーツたちの帰国を促したのは、ITバブルの崩壊、自国の産業レベルの向上などである。しかしそれ以上に彼らが母国に戻ろうと決意したのは、母国愛といった単純なものだけでなく、移民として米国社会に100%受け入れられることはないという諦念と満たされない思いもその根底にある。自分の存在をかけているからこそ、母国に世界で評されるシリコンバレーのようなシステムを作り、シリコンバレーと母国をつなげ、母国での可能性に賭けて戦うのである。平和で豊かな故郷をもつ日本人にこのような思いはあるであろうか。確かにサクセニアンが示唆するように国がもっと支援すれば、日本にはアルゴノーツたちをもっと活躍させる余地があるかもしれない。ただ、本書に出てくる他国のアルゴノーツのさまざまな奮闘を読む限り、それだけでは不十分であろうと思わざるをえないのである。

 日本が、今後経済発展を図っていくためには、シリコンバレー・モデルの伝導者であるアルゴノーツを介した発展を図るこれら国々とは異なるロジックが必要なのかもしれない。シリコンバレー・モデルは確かに魅力的ではある。しかしすべての国に万能薬というわけではない。そんな思いを強くした一冊である。


福嶋 路 (経済学研究科 准教授)

専門分野: 地域企業論、企業戦略論、イノベーション論
関心テーマ: イノベーション、技術の商用化、産学連携、地域振興

誰のために、何のために大学教育の「質」を「保証」するのか?

『大学教育と質保証-多様な視点から高等教育の未来を考える』斉藤里美、杉山憲司(編著)(明石書店、2009年)

 大学間競争のグローバル化が進む中、国内では少子化という独自の問題を抱える日本の高等教育機関に今、求められる「質の保証」とは何か?

 本書では、高等教育に関わる専門家らが、それぞれの専門領域というフレームワークの中で大学の「質」と「保証」を定義し、大学教育の目標・方法またその質保証と学習を支える要因の相互作用を分析しながら、大学教育の質保証とは一体誰のために、なぜ行うのかという共通のテーマを追う形で議論を展開させている。

 具体的には、高等教育の質保証を世界の主要地域・国および日本の政策的観点より整理・分析し(1章)、質保証の対象者や大学が追う説明責任が高等教育政策史上どのように変容してきたかを検証することにより現在の課題を洗い出し(2章)、質保証を支える学習を教育心理学的視点で捉え、従来の知識伝達型の授業に、教育効果の高い学生参加型を取り入れ「教員と学生の相互信頼感に基づいた学びのコミュニティー」(p.92)作りを行うための具体的ペタゴジー(教授法)を紹介している(3章)。また、4章、5章では、学生相談、キャンパス・アメニティーの観点から、学習の場面以外でも大学の質保証に関わる要因が存在することを指摘した上で、教育と学生支援を統合させた包括的なキャンパスライフの質の向上への方策が提案されている。

 6章では、地域論から大学の意義や課題を見直し、従来の研究成果の応用・実践というルートのみならず、社会人教育や学生参加型、プロジェクト型の地域連携型教育により大学と地域社会のつながりを深めることの重要性が説かれている。「グローカリゼーション」の推進で大学が担うべき役割は何か、大学教育の質が社会で検証されることが質保証にどのようにつながるかという視点から興味深い議論が展開されている。

 7章は、大学教育のあり方をキャリア教育・支援という切り口で論じている。社会で必要とされる学士力、社会人基礎力を備えた自律的人材を、大学がそれぞれの建学の精神、使命、教育目的に則った教育方法で育てることの重要性に言及し、またそのためにはこれまで連続性の希薄が指摘されていた大学と産業界の意思疎通を活発化させ、社会へのフィードバックを意識したキャリア教育を体系的に展開してゆく必要があると指摘している。

 高等教育の国際競争はWTOのサービス貿易に関する一般協定(GATS)発効に伴い、高等教育がサービス貿易の対象となったことで本格化した。OECDが進める国際的に通用する主要能力(キー・コンピテンシー)評価の枠組み作りは世界各国の学力・能力観に影響を与え、The Times Higher Education Supplement(英Times誌別冊)や上海交通大学が毎年発表する世界大学ランキングは、大学間競争を激化させる要因となっているとの批判がある一方で、一定の評価基準で大学の質を検証することで高等教育の信頼性や透明性を高め、各国の機関に国際通用性を意識させるという点では評価に値する役割を果たしている。

 アメリカでは第3者専門機関によるアクレデーション(適格認定)の整備が進み、ヨーロッパではボローニャ宣言(1999年)に続き、欧州高等教育質保証ネットワーク(ENQA)が2005年に「欧州高等教育圏質における質保証のための規準および指針」を発表するなど、高等教育の質保証のための取り組みが行われている。また、留学生の比率が50%を超す大学も出現している豪州では、世界各国から優秀な学生を獲得するために国際競争力を意識した大学改革が進められている。

 日本の大学はこれらの高等教育の国際化による外的プレッシャーに加え、少子化や学士力の問題、また経済界の要請に従属的な人材育成を行うことへのジレンマなど、内的プレッシャーとも向き合いながら、「質」を向上・維持し、「保証」するための方策を模索しなければならない状況にある。本書が指摘するように、我々大学関係者は、質保証の重要性を認識しながらも、大学評価の標準化が大学から個性を排除しないよう、「質」の多様化を試み、大学の自律性・裁量と質保証をどのように天秤にかけるか、さらに議論を深化させる必要がある。


末松 和子 (経済学研究科 准教授)

専門分野:国際教育、異文化間教育
関心テーマ:異文化間教育効果、異文化適応

研究者の人生とは…

丸山徹『ワルラスの肖像』(勁草書房、2008年)

 著者は「序」において「私は、その静かな学究生活に深い諦念の悲しみが漂うワルラスの姿を描いてみたいと、長い間思いつづけていたのであるが、…これはワルラスの為人(ひととなり)、思想・学説、そして彼の生きた時代の肖像をおぼろげながら描いた素描である」(p. i)と本書の目的を述べている。目次は以下の通りである。

第1章:1870年前後
第2章:経済の均衡-ワルラスが見た世界
第3章:革命期フランス数学の明暗-コンドルセからクールノーへ
第4章:欲望の価値学説-アリストテレースからガリアーニへ
第5章:効用と需要-常識から科学へ
第6章:生産と分配-書簡から読みとる人間模様
第7章:イタリアのローザンヌ学派-パレートの育む均衡理論の苗床
第8章:ウィーンの世紀末-数学・哲学そして経済学
終章

 目次を一瞥すれば分かるように、本書は実際には著者自身が「序」で述べた目的を大きく超えた内容を含んでいる。議論は純粋経済理論から、19世紀ヨーロッパ史、数学史、古代ギリシャからの哲学史へと議論は縦横無礙に行き来する。しかし、読みづらいと感ずることはない。著者の筆力の賜物である。

 周知のように、ワルラスは限界革命を引き起こした経済学説史上の巨人である。著者によると、ワルラスは父A.ワルラスとクールノーという「ふたつの思想の大河をそれぞれに下ってきたふたりの舟人に出会い、その合流点から自らもその流れに竿さす身となった」(p. 115)という。そこで、ワルラスの源流とも言える父ワルラスとクールノーの足跡を辿る旅へとわれわれは誘われる。

 ワルラスはクールノーから数学手法を経済分析に適用する手法を学んだ。そして、クールノーが生きていた時代のフランスの数学界の状況、コンドルセがヴォルテールやチュルゴーらの考えに触発され「社会数学」という新しい数学のジャンルを構想したこと、その新しいジャンルがポアッソンを経由してクールノーに継承されたことなどが鮮やかに描き出されている。

 他方で、ワルラスは父ワルラスからは価値・価格の説明原理として主観的要因=効用を重視する基本的視角を継承した。主観的価値論の歴史がアリストテレースに始まり、イタリア経済思想界で彫琢され、その後フランスに移入され、父ワルラスへと繋がる歴史的系譜が明快に描かれている。

 クールノーが経済学に初めて明示的に導入した需要関数を効用最大化から導出したところにワルラスの偉大な貢献がある。著者はワルラスが効用から需要の導出を完成させたのは1872年の秋から冬であると特定している。日本のワルラス研究者として高名な安井琢磨氏、御崎加代子氏の著作ではワルラスの中で限界革命が起こった時期は、管見の限り明言されていない。また、根岸隆氏のワルラスに関する業績の中でも明言されていない。評者は経済学史の専門家ではなく、それらに関する海外文献に精通しているわけではないので断言はできないが、ワルラスにおける限界革命が起きた時期を特定したことは本書の大きな功績であろう。

 本書を通じて著者が描いているのは、ワルラスの孤高な研究者の姿である。一般均衡論がなかなか経済学界で受け入れられなかったこと、数学を経済学に応用することに対する数学者の冷やかな目、ローザンヌ学派内での不和など、ワルラスの孤独感・挫折感が伝わってくる。このようなワルラスの生涯を当時の歴史的状況から丁寧に説明している。また、効用の可測性、積分可能性など限界革命期当時に生じ、しかも現在の教科書ではほとんどお目にかかることのない深い議論やワルラスとメンガーとの間の方法論争が紹介されている。昨今の経済学の技術的な高度化に伴い、この辺りの議論に関する経済理論家の関心が失われてしまったように思う。経済学史のみならず理論の専門家にとっても、本書は一読の価値がある。

 敢えて無いものねだりを言えば、本書はワルラスの一般均衡に関する理論的学説は余すところなく描いているが、社会思想に関する議論はやや手薄である。ワルラスの社会思想が基本的には父ワルラスのそれをそのまま継承し、サン・シモニアンの影響を強く受け、自然法的・理想主義的な傾向を有していたことは論じられているが、微に入り細に入り検討している経済理論に関する議論に比して、「応用経済学」や「社会経済学」に関する議論に割いている紙面は明らかに少ない。とはいえ、経済学史上の巨人はスケールが大きいが故に巨人なのであり、巨人を論じる際に濃淡があることは当然である。このことはあくまでもないものねだりであって、本書の貢献を損なうものではない。

黒瀬 一弘 (経済学研究科 准教授)

専門分野:経済政策
関心テーマ:マクロ経済学

税制は私たちを映しだす鏡

『税制改革の渦中にあって』石弘光(岩波書店、2008年)

 ベンジャミン・フランクリンが、” In this world nothing can be said to be certain , except death and taxes. “ と言うように、税は私たちに最も身近なものである。また、国や社会の在り方の根幹をなすものが税制である。

 二十一世紀に相応しい税制を構築していくためにどのような課題に取り組むべきなのか、私たち一人ひとりが考えていくことが求められている。そのとき、我が国経済社会の「実像」をしっかりと見据えることが何よりも重要であろう。

 この点に関し2004年の税制調査会において「10のキーファクト」を挙げ、私たちが直面する構造変化の実像を明らかにしている(基礎問題委員会報告『わが国社会の構造変化の「実像」について』同年6月)。

 すなわち、1)人口減少社会・超高齢化社会、2)右肩上がり経済の終焉、3)家族のかたちの多様化、4)日本型雇用慣行のゆらぎと働き方の多様化、5)価値観・ライフスタイルの多様化・多重化、6)社会や公共に対する意識、7)分配面での変化の兆し、8)環境負荷の増大・多様化、9)グローバル化の進展、10)深刻化する財政状況、である。

 大事な点は、過去の残像あるいは虚像ではなく、こうした実像を直視して取り組んでいくということに他ならない。

 本書は、2000年6月から2006年6月までの丸六年間、政府税制調査会の会長職にあった石弘光一橋大学名誉教授によるものである。上記の検討・報告も含め、税制改革の「渦中」に身を置かれた著者からは、これからの税の在り方を考えていくに当たって、多くの有益な示唆が与えられる。その前半部分では、これまでの論議ではあまり採り上げられなかったテーマ(増税時代へのパラダイムの転換、マスコミ報道など)につき興味深い視点が提供されている。また、後半部分では、所得税・消費税・法人税といった主要な税目の現状や問題点に触れられている。

 税は社会的インフラストラクチャ―の一つであり、経済社会構造を基礎として構築されるものであれば、私たちを映しだす「鏡」でもある。今まさに著者が言われる「将来真に必要なものを見抜く眼力」をもって、実像をきちんと踏まえ、税制改革論議を実りあるものにしていかなければならない。こうした観点から、同じ著者による『現代税制改革史-終戦からバブル崩壊まで-』(東洋経済新報社、2008年)をも併せ読まれることをお勧めする。


関岡 誠一 (経済学研究科 教授)

専門分野:法人税法
関心テーマ:税制

反経済学的小説

Kosinski, Jerzy (1970), “Being There”
Harcourt Brace Jovanovich Inc.*

 今回、このコラムを書くために、念のため、「Being There」を読み返そうと思いましたが、長年の転勤生活者の知恵で、私は辞書以外本を持たない主義なので、さて、どうしようかと案じ、駄目もとで取り敢えず大学の図書館へ行ってみました。そうしましたら、何とハードカバーで2冊もありました。誰がこの本を東北大学図書館所蔵の書籍に認定されたのか知りませんが、一応、それもお墨付きの一つと思い、このコラムに「Being There」を選んだ自分の見識も捨てたものではないと自画自賛している次第です。

 「Being There」は、ポーランド生まれの作家ジャージー・コジンスキー(Jerzy Kosinski) が1970年に書いた短編小説で、舞台はニューヨーク、庭師を主人公にしたある種世相風刺の娯楽ものです。その娯楽性もあってか、1981年にピーター・セラーズ主演で映画化もされ、これはオスカー賞を受賞しました。

 私がこの本に出会ったのは、英語学校のクラスメイトのフランス人が「英語が易しくて、しかも話が面白く、長さも丁度良いから読んでみたら」と勧めてくれたのがきっかけでした。英語の学習に向いているのは、想像力と好奇心で辞書を引く手間も惜しんでガンガン読み進められる、例えば「Play Boy」のような類の雑誌が一押しと昔から言われています。
 しかし、まあ、真面目な私としては世間体もあり、その教えに従えなかったのですが、「Being There」は写真こそありませんが、そういう感じの場面も一部にあり(映画ではシャーリー・マクレーンが演じています)、実は、私にとって生まれて初めて140ページばかりの本ですが一気に辞書も使わず読み切った英語の本でした。
 というような事情で、このコラムにこの本を紹介する一つの理由は英語学習のための推薦図書ということになりましょうか。

 しかし、それだけではこのコラムの担当者に怒られてしまいそうなので、少し、経済にも引っかけてこの本を紹介します。
 この本を最初に読んだのは、就職した後何年か経ってアメリカの大学院へ留学していた頃なのですが、正直に告白しますと、就職して娑婆を知ってしまった後、象牙の塔で経済学理論を勉強することの無意味さに私は呻吟していました。そういう時に経済現象を四季の中で育っていく植物界に譬えている(ような)主人公Chanceの語り口調に大変惹かれました。後年、歳を経て自分自身園芸や農業ごっこに手を染めるようになると、その感は益々強くなっています。因みに、人間界の人事現象も植物界の掟で語ると実に分かりやすいものです。今、世界中の指導者(?)が取り組んでいるサブプライムローン問題をきっかけとした一連の経済問題もChance に言わせれば「放っておけば」ということになるのではないかと密かに思っています。

* 現在入手できるのは、1999年、Grove Press 出版のもの。以下参照 http://www.amazon.co.jp/gp/reader/0802136346/ref=sib_dp_ptu#reader-link


出沢 敏雄 (経済学研究科 教授)

専門分野 :中央銀行論
関心テーマ :地域経済の盛衰