『税制改革の渦中にあって』石弘光(岩波書店、2008年)
ベンジャミン・フランクリンが、” In this world nothing can be said to be certain , except death and taxes. “ と言うように、税は私たちに最も身近なものである。また、国や社会の在り方の根幹をなすものが税制である。
二十一世紀に相応しい税制を構築していくためにどのような課題に取り組むべきなのか、私たち一人ひとりが考えていくことが求められている。そのとき、我が国経済社会の「実像」をしっかりと見据えることが何よりも重要であろう。
この点に関し2004年の税制調査会において「10のキーファクト」を挙げ、私たちが直面する構造変化の実像を明らかにしている(基礎問題委員会報告『わが国社会の構造変化の「実像」について』同年6月)。
すなわち、1)人口減少社会・超高齢化社会、2)右肩上がり経済の終焉、3)家族のかたちの多様化、4)日本型雇用慣行のゆらぎと働き方の多様化、5)価値観・ライフスタイルの多様化・多重化、6)社会や公共に対する意識、7)分配面での変化の兆し、8)環境負荷の増大・多様化、9)グローバル化の進展、10)深刻化する財政状況、である。
大事な点は、過去の残像あるいは虚像ではなく、こうした実像を直視して取り組んでいくということに他ならない。
本書は、2000年6月から2006年6月までの丸六年間、政府税制調査会の会長職にあった石弘光一橋大学名誉教授によるものである。上記の検討・報告も含め、税制改革の「渦中」に身を置かれた著者からは、これからの税の在り方を考えていくに当たって、多くの有益な示唆が与えられる。その前半部分では、これまでの論議ではあまり採り上げられなかったテーマ(増税時代へのパラダイムの転換、マスコミ報道など)につき興味深い視点が提供されている。また、後半部分では、所得税・消費税・法人税といった主要な税目の現状や問題点に触れられている。
税は社会的インフラストラクチャ―の一つであり、経済社会構造を基礎として構築されるものであれば、私たちを映しだす「鏡」でもある。今まさに著者が言われる「将来真に必要なものを見抜く眼力」をもって、実像をきちんと踏まえ、税制改革論議を実りあるものにしていかなければならない。こうした観点から、同じ著者による『現代税制改革史-終戦からバブル崩壊まで-』(東洋経済新報社、2008年)をも併せ読まれることをお勧めする。
関岡 誠一 (経済学研究科 教授)
専門分野:法人税法
関心テーマ:税制
反経済学的小説
Kosinski, Jerzy (1970), “Being There”
Harcourt Brace Jovanovich Inc.*
今回、このコラムを書くために、念のため、「Being There」を読み返そうと思いましたが、長年の転勤生活者の知恵で、私は辞書以外本を持たない主義なので、さて、どうしようかと案じ、駄目もとで取り敢えず大学の図書館へ行ってみました。そうしましたら、何とハードカバーで2冊もありました。誰がこの本を東北大学図書館所蔵の書籍に認定されたのか知りませんが、一応、それもお墨付きの一つと思い、このコラムに「Being There」を選んだ自分の見識も捨てたものではないと自画自賛している次第です。
「Being There」は、ポーランド生まれの作家ジャージー・コジンスキー(Jerzy Kosinski) が1970年に書いた短編小説で、舞台はニューヨーク、庭師を主人公にしたある種世相風刺の娯楽ものです。その娯楽性もあってか、1981年にピーター・セラーズ主演で映画化もされ、これはオスカー賞を受賞しました。
私がこの本に出会ったのは、英語学校のクラスメイトのフランス人が「英語が易しくて、しかも話が面白く、長さも丁度良いから読んでみたら」と勧めてくれたのがきっかけでした。英語の学習に向いているのは、想像力と好奇心で辞書を引く手間も惜しんでガンガン読み進められる、例えば「Play Boy」のような類の雑誌が一押しと昔から言われています。
しかし、まあ、真面目な私としては世間体もあり、その教えに従えなかったのですが、「Being There」は写真こそありませんが、そういう感じの場面も一部にあり(映画ではシャーリー・マクレーンが演じています)、実は、私にとって生まれて初めて140ページばかりの本ですが一気に辞書も使わず読み切った英語の本でした。
というような事情で、このコラムにこの本を紹介する一つの理由は英語学習のための推薦図書ということになりましょうか。
しかし、それだけではこのコラムの担当者に怒られてしまいそうなので、少し、経済にも引っかけてこの本を紹介します。
この本を最初に読んだのは、就職した後何年か経ってアメリカの大学院へ留学していた頃なのですが、正直に告白しますと、就職して娑婆を知ってしまった後、象牙の塔で経済学理論を勉強することの無意味さに私は呻吟していました。そういう時に経済現象を四季の中で育っていく植物界に譬えている(ような)主人公Chanceの語り口調に大変惹かれました。後年、歳を経て自分自身園芸や農業ごっこに手を染めるようになると、その感は益々強くなっています。因みに、人間界の人事現象も植物界の掟で語ると実に分かりやすいものです。今、世界中の指導者(?)が取り組んでいるサブプライムローン問題をきっかけとした一連の経済問題もChance に言わせれば「放っておけば」ということになるのではないかと密かに思っています。
* 現在入手できるのは、1999年、Grove Press 出版のもの。以下参照 http://www.amazon.co.jp/gp/reader/0802136346/ref=sib_dp_ptu#reader-link
出沢 敏雄 (経済学研究科 教授)
専門分野 :中央銀行論
関心テーマ :地域経済の盛衰
古典を読む
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』カール・マルクス著/植村邦彦訳(平凡社・平凡社ライブラリー、2008年)
経済学部で「マルクス」といったら、やはり『資本論』ということになるのだろうか?
でも、19世紀フランス社会経済史を専攻するぼくにとっては、マルクスといったら通称「フランス三部作」、つまり『フランスにおける階級闘争』、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』、そして『フランスにおける内乱』である。これは、あるべき社会システムをめぐって激動する19世紀フランスで勃発した二つの大事件(1848年の二月革命、1871年のパリ・コミューン)を、隣国イギリスでリアルタイムで「経験」したマルクスが著した、いわばルポルタージュである。
1848年、フランスでは二月革命が生じ、男子普通選挙制度が導入され、社会主義者や労働者代表が臨時政府に参加するなど、さまざまな「実験」がなされた。ところが、その年12月に実施された大統領選挙で圧倒的な支持を集めて当選したのは、かのナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・(ナポレオン・)ボナパルト(のちの皇帝ナポレオン三世)だった。そして、彼は、社会主義者の弾圧や男子普通選挙制度の事実上の放棄など、二月革命の成果を否定する方策を次々に打ち出し、さらには1851年12月のクーデタによって共和制そのものを葬りさることになる。この歴史のトレンドをサーベイし、その背景にあるメカニズムを分析したのが、「フランス三部作」のうち『階級闘争』と『ブリュメール』である。
今回、このうち『ブリュメール』が、装いもあらたにポケット版として刊行された。
この『ブリュメール』だが、かつて「例外国家論」なる理論を提示している書としてあがめたてまつられていた時代がある。つまり、マルクス主義国家論によれば、すべて国家は(地主、資本家、労働者など)特定の階級の利害を体現する存在である。ところが、実際には、国家は特定の階級の利害を代弁しているようにみえないことが多い。これはつまりマルクス主義国家論は間違えているということなのか、それとも……という文脈のなかで、大略「ルイ・ボナパルト支配下の国家は、さまざまな階級の利害=社会から自立し、一種例外的な超然権力としてそびえたっていた」という『ブリュメール』の所説が「例外国家論」と名づけられ、処方箋として着目され、古典として読み継がれてきたわけである。
しかし、ルイ・ボナパルト政権の経済政策をみれば、マルクスの所説はあたっていないことがわかる。それは一貫して工業化&近代化&経済成長を志向していたであり、そこではなによりもまず(いわば)進歩的な資本家の利害が重視されていたのである。
それでは、今日もはや『ブリュメール』は読むに値しないか?、古典は本棚で眠っていればよいか?、といえば、そんなことはない。マルクスは、二月革命に対して、それなりの期待をかけた。そして、みずからの期待が裏切られてゆくなかで、とりわけルイ・ボナパルトに対する彼の憤りは高まってゆく。それゆえ『ブリュメール』における、ルイ・ボナパルトに対するマルクスの悪口は、天才的な冴えをみせている。なにしろ、いきなり冒頭からして、
「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は悲劇として、もう一度は笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1793~95年のモンターニュ派、伯父の代わりに甥!」(15頁、ただし訳注を参照しながら第二版の訳文となるように修正した)
である。うーむ、このきらめくような皮肉にみちあふれたレトリックを堪能するだけで1575円(税込)は惜しくない、こんな古典の読み方があってもよい……と、ぼくは思うのだが、さてどうだろうか。
小田中 直樹 (経済学研究科 教授)
専門分野:社会経済史
関心テーマ:フランス近代社会、史学史
経済学部で「マルクス」といったら、やはり『資本論』ということになるのだろうか?
でも、19世紀フランス社会経済史を専攻するぼくにとっては、マルクスといったら通称「フランス三部作」、つまり『フランスにおける階級闘争』、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』、そして『フランスにおける内乱』である。これは、あるべき社会システムをめぐって激動する19世紀フランスで勃発した二つの大事件(1848年の二月革命、1871年のパリ・コミューン)を、隣国イギリスでリアルタイムで「経験」したマルクスが著した、いわばルポルタージュである。
1848年、フランスでは二月革命が生じ、男子普通選挙制度が導入され、社会主義者や労働者代表が臨時政府に参加するなど、さまざまな「実験」がなされた。ところが、その年12月に実施された大統領選挙で圧倒的な支持を集めて当選したのは、かのナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・(ナポレオン・)ボナパルト(のちの皇帝ナポレオン三世)だった。そして、彼は、社会主義者の弾圧や男子普通選挙制度の事実上の放棄など、二月革命の成果を否定する方策を次々に打ち出し、さらには1851年12月のクーデタによって共和制そのものを葬りさることになる。この歴史のトレンドをサーベイし、その背景にあるメカニズムを分析したのが、「フランス三部作」のうち『階級闘争』と『ブリュメール』である。
今回、このうち『ブリュメール』が、装いもあらたにポケット版として刊行された。
この『ブリュメール』だが、かつて「例外国家論」なる理論を提示している書としてあがめたてまつられていた時代がある。つまり、マルクス主義国家論によれば、すべて国家は(地主、資本家、労働者など)特定の階級の利害を体現する存在である。ところが、実際には、国家は特定の階級の利害を代弁しているようにみえないことが多い。これはつまりマルクス主義国家論は間違えているということなのか、それとも……という文脈のなかで、大略「ルイ・ボナパルト支配下の国家は、さまざまな階級の利害=社会から自立し、一種例外的な超然権力としてそびえたっていた」という『ブリュメール』の所説が「例外国家論」と名づけられ、処方箋として着目され、古典として読み継がれてきたわけである。
しかし、ルイ・ボナパルト政権の経済政策をみれば、マルクスの所説はあたっていないことがわかる。それは一貫して工業化&近代化&経済成長を志向していたであり、そこではなによりもまず(いわば)進歩的な資本家の利害が重視されていたのである。
それでは、今日もはや『ブリュメール』は読むに値しないか?、古典は本棚で眠っていればよいか?、といえば、そんなことはない。マルクスは、二月革命に対して、それなりの期待をかけた。そして、みずからの期待が裏切られてゆくなかで、とりわけルイ・ボナパルトに対する彼の憤りは高まってゆく。それゆえ『ブリュメール』における、ルイ・ボナパルトに対するマルクスの悪口は、天才的な冴えをみせている。なにしろ、いきなり冒頭からして、
「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は悲劇として、もう一度は笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1793~95年のモンターニュ派、伯父の代わりに甥!」(15頁、ただし訳注を参照しながら第二版の訳文となるように修正した)
である。うーむ、このきらめくような皮肉にみちあふれたレトリックを堪能するだけで1575円(税込)は惜しくない、こんな古典の読み方があってもよい……と、ぼくは思うのだが、さてどうだろうか。
小田中 直樹 (経済学研究科 教授)
専門分野:社会経済史
関心テーマ:フランス近代社会、史学史
平均年収637万円・・・をどう見るか? -統計学への入り口-
『統計学 (基礎コース)』田中勝人(新世社、1998年)
世の中には様々なデータが溢れている。データそれ自体はただの数字だが、統計学を使うと、その数字の山を眺めているだけではなかなか分からない有用な情報を抽出できる。こう書くと抽象的で分かりにくいかもしれないが、私たちはそのような作業を日常的に行っている。例えば、平均を計算することも立派な統計学である。年収のデータは膨大な数字の山だが、そこから計算される637万円(2007年家計調査年報(総務省統計局))といったような平均年収を見ることで「みんなはこのくらいの年収がある」といった目安の情報を得ている人もいるだろう。
では、平均とはそもそも何であって、どのような意味を持っているのか。平均年収637万円は「みんなは637万円くらいの年収がある」と解釈して良いのか(実はそう解釈できないことが多い)。このようなことは普段はあまり考えないのではないだろうか。平均なるものをただ何となく計算し、その解釈も厳密には行わないだろう。こうしたことは、私たちが統計学の断片をあまり深く考えずに使っていることを示唆する。このままでは必要な情報を上手く抽出できなかったり、抽出した情報を誤解してしまうおそれがある。企業や官庁でデータを扱う仕事をする人やデータを使ってレポートや論文を書く学生・研究者にとっては、問題はより深刻だろう。
そこで薦めるのが本書のような統計学の入門書である。この本で扱うトピックはヒストグラムの作り方からいわゆる線形回帰分析までで、もちろん平均についての記述もある。その記述を拾い読みすれば先ほどの平均年収の解釈も適切に行えるだろう。ただ、そのような読み方では、個々の統計的なテクニックを断片的に身につけるだけになりかねない。それではマニュアル的な統計分析はできても応用力に乏しくなってしまうだろう。
数多くある統計学入門書の中から特に本書を薦めるのは、本書がそうしたことを防ぐよう上手く書かれていると思ったからである。この本の大きな特徴は、各トピックをつなぐ流れが非常に良く、全体として統一的かつコンパクトに編集されている点である。これは、拾い読みではなく全体を通して読むことで、読者が統計学の全体像をつかめることを意味する。個々の統計手法の実際的な使い方だけではなく統計学の考え方や全体像も把握できれば、様々な問題に対応する応用力が付き、より適切な分析ができるだろう。また、本書は経済分析で使うための統計学を念頭に書かれているので、数学的な記述に偏ることはなく、読みやすいだろう。経済データを使った例も豊富だが、中には“例”としてさらっと読めないような難しい例もあるので、そこはやや注意が必要かもしれない。
以上が本論で、以下は余談である。先日、知人の結婚式に出かける前にご祝儀の相場をネットで検索したところ、アンケート結果として“平均金額は32152円”のようなことを載せているサイトがあった。これを見て「32152円が相場だ」と誤解して152円のような小銭をもご祝儀袋に入れる人はまさかいないだろうが、平均金額を載せるのはあまり適切ではない。サイト運営者はあまり深く考えずに平均を載せたのかもしれないが、この手のサイトを見る人は「みんなはいくら包んでいるのか」を知りたがっているのだろうから、平均値より最頻値(モード)が適切だと考えられる。こうした些細なことも、上で述べた応用力の一つだと思う。
さて、ご祝儀に152円をも誤って包むことは常識的にあり得ないが、様々な経済データと複雑な統計手法を使ったレポート・論文では思わぬ誤解が生じるかもしれない。“常識的”で片付けられない経済現象を分析することもあるのだから。また、統計分析の結果は、ご祝儀の金額を決めるといったように、意思決定に関わることもある。本書を読んで統計学をよく理解し、経済状態の誤認や意思決定の誤りなど無いようにして頂ければと思う。
千木良 弘朗 (経済学研究科 准教授)
専門分野:計量経済学
関心テーマ:パネルデータ分析、時系列分析
世の中には様々なデータが溢れている。データそれ自体はただの数字だが、統計学を使うと、その数字の山を眺めているだけではなかなか分からない有用な情報を抽出できる。こう書くと抽象的で分かりにくいかもしれないが、私たちはそのような作業を日常的に行っている。例えば、平均を計算することも立派な統計学である。年収のデータは膨大な数字の山だが、そこから計算される637万円(2007年家計調査年報(総務省統計局))といったような平均年収を見ることで「みんなはこのくらいの年収がある」といった目安の情報を得ている人もいるだろう。
では、平均とはそもそも何であって、どのような意味を持っているのか。平均年収637万円は「みんなは637万円くらいの年収がある」と解釈して良いのか(実はそう解釈できないことが多い)。このようなことは普段はあまり考えないのではないだろうか。平均なるものをただ何となく計算し、その解釈も厳密には行わないだろう。こうしたことは、私たちが統計学の断片をあまり深く考えずに使っていることを示唆する。このままでは必要な情報を上手く抽出できなかったり、抽出した情報を誤解してしまうおそれがある。企業や官庁でデータを扱う仕事をする人やデータを使ってレポートや論文を書く学生・研究者にとっては、問題はより深刻だろう。
そこで薦めるのが本書のような統計学の入門書である。この本で扱うトピックはヒストグラムの作り方からいわゆる線形回帰分析までで、もちろん平均についての記述もある。その記述を拾い読みすれば先ほどの平均年収の解釈も適切に行えるだろう。ただ、そのような読み方では、個々の統計的なテクニックを断片的に身につけるだけになりかねない。それではマニュアル的な統計分析はできても応用力に乏しくなってしまうだろう。
数多くある統計学入門書の中から特に本書を薦めるのは、本書がそうしたことを防ぐよう上手く書かれていると思ったからである。この本の大きな特徴は、各トピックをつなぐ流れが非常に良く、全体として統一的かつコンパクトに編集されている点である。これは、拾い読みではなく全体を通して読むことで、読者が統計学の全体像をつかめることを意味する。個々の統計手法の実際的な使い方だけではなく統計学の考え方や全体像も把握できれば、様々な問題に対応する応用力が付き、より適切な分析ができるだろう。また、本書は経済分析で使うための統計学を念頭に書かれているので、数学的な記述に偏ることはなく、読みやすいだろう。経済データを使った例も豊富だが、中には“例”としてさらっと読めないような難しい例もあるので、そこはやや注意が必要かもしれない。
以上が本論で、以下は余談である。先日、知人の結婚式に出かける前にご祝儀の相場をネットで検索したところ、アンケート結果として“平均金額は32152円”のようなことを載せているサイトがあった。これを見て「32152円が相場だ」と誤解して152円のような小銭をもご祝儀袋に入れる人はまさかいないだろうが、平均金額を載せるのはあまり適切ではない。サイト運営者はあまり深く考えずに平均を載せたのかもしれないが、この手のサイトを見る人は「みんなはいくら包んでいるのか」を知りたがっているのだろうから、平均値より最頻値(モード)が適切だと考えられる。こうした些細なことも、上で述べた応用力の一つだと思う。
さて、ご祝儀に152円をも誤って包むことは常識的にあり得ないが、様々な経済データと複雑な統計手法を使ったレポート・論文では思わぬ誤解が生じるかもしれない。“常識的”で片付けられない経済現象を分析することもあるのだから。また、統計分析の結果は、ご祝儀の金額を決めるといったように、意思決定に関わることもある。本書を読んで統計学をよく理解し、経済状態の誤認や意思決定の誤りなど無いようにして頂ければと思う。
千木良 弘朗 (経済学研究科 准教授)
専門分野:計量経済学
関心テーマ:パネルデータ分析、時系列分析
現場でしかわからない「福祉国家」の実態
『貧困襲来』湯浅誠(2007年、山吹書店)
「ワーキング・プア」、「ホームレス」、「フリーター」等の言葉はよく知っている人でも、本書のタイトルには一見ぎょっとするかも知れない。だが、そうしたカタカナで軽い言葉のために見えにくくなっていたものが、まぎれもない「貧困」であることが本書を読み進めていくとわかるだろう。
本書は、生活困窮者を支援するNPO法人・自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長を務める筆者の、「貧困」をテーマにした現場ルポと、その政治的、社会的考察である。本書はまず、現在の貧困の特徴が、企業や家族などかつての日本の福祉の中核だったところからの排除にあること、日本で貧困を見えにくくしている原因が、政府、マスコミ、一般市民、そして自分自身による「四重の否認」にあり、その代わりに「格差」という、あいまいな表現が使われて議論が混乱していることが述べられる。さらに、「再チャレンジ」が、実際にはセーフティネットのない、単なる労働市場への放り出しであることや、最後の拠り所である生活保護の徹底的な抑制方針、社会保障における財源論の問題点など、近年の政策批判が続く。ここでいう財源論とは、社会保険方式を前提とした上で、その「持続可能性」のためには給付を抑制し、財源(保険料)を増大させるべき、との議論であるが、それは、最初から国の責任を意味する税金投入の蛇口が閉められた議論だとされる。
本書後半では、セーフティネットからこぼれ落ちた人たちを対象にした「貧困ビジネス」の実態が筆者の体験も交えて述べられているが、ギャンブルや消費者金融だけでなく、それ以外の、敷金礼金ゼロ、あるいは保証人不要の賃貸住宅など、一見困窮者に有利に見えるサービスが、実際には彼らを収奪する「貧困ビジネスネットワーク」の一環であるという指摘は衝撃的である。
本書での政治的な主張に対しては様々な立場からの意見が可能であろう。しかし、それ以前に認識すべきことは、現場でしか知ることのできない、これまで「福祉国家」をめざしてきたとされる日本で今起こっている貧困の実態である。研究室や机の上では決してわからない現実が本書にある。
個人的に強い関心を持ったのは第一に、貧困が、金銭的のみならず、家族、友人などの人間関係的な、そして気持ちのゆとりである精神的な「溜め」のなさによって生じるという説明である。貧困は単なる経済的問題ではなく社会的な問題なのである。第二に、上述した、政府、マスコミ、社会による「貧困の隠蔽」という点である。金持ちや権力者だけではなく、われわれ自身が「貧困」から目をそらしてきた。本書ではこれまで行政の対象だった「新しい公共空間」が地域や市民による「共助」によって支えられる予定であることを「地域への公的責任の押し付け」と論じているが、それは同時に、地域において共に支えあう社会資源が乏しく、公的福祉の受け皿がないことも意味しているのではないだろうか。
佐々木 伯朗 (経済学研究科 准教授)
専門分野:財政学
関心テーマ:社会保障財政
「ワーキング・プア」、「ホームレス」、「フリーター」等の言葉はよく知っている人でも、本書のタイトルには一見ぎょっとするかも知れない。だが、そうしたカタカナで軽い言葉のために見えにくくなっていたものが、まぎれもない「貧困」であることが本書を読み進めていくとわかるだろう。
本書は、生活困窮者を支援するNPO法人・自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長を務める筆者の、「貧困」をテーマにした現場ルポと、その政治的、社会的考察である。本書はまず、現在の貧困の特徴が、企業や家族などかつての日本の福祉の中核だったところからの排除にあること、日本で貧困を見えにくくしている原因が、政府、マスコミ、一般市民、そして自分自身による「四重の否認」にあり、その代わりに「格差」という、あいまいな表現が使われて議論が混乱していることが述べられる。さらに、「再チャレンジ」が、実際にはセーフティネットのない、単なる労働市場への放り出しであることや、最後の拠り所である生活保護の徹底的な抑制方針、社会保障における財源論の問題点など、近年の政策批判が続く。ここでいう財源論とは、社会保険方式を前提とした上で、その「持続可能性」のためには給付を抑制し、財源(保険料)を増大させるべき、との議論であるが、それは、最初から国の責任を意味する税金投入の蛇口が閉められた議論だとされる。
本書後半では、セーフティネットからこぼれ落ちた人たちを対象にした「貧困ビジネス」の実態が筆者の体験も交えて述べられているが、ギャンブルや消費者金融だけでなく、それ以外の、敷金礼金ゼロ、あるいは保証人不要の賃貸住宅など、一見困窮者に有利に見えるサービスが、実際には彼らを収奪する「貧困ビジネスネットワーク」の一環であるという指摘は衝撃的である。
本書での政治的な主張に対しては様々な立場からの意見が可能であろう。しかし、それ以前に認識すべきことは、現場でしか知ることのできない、これまで「福祉国家」をめざしてきたとされる日本で今起こっている貧困の実態である。研究室や机の上では決してわからない現実が本書にある。
個人的に強い関心を持ったのは第一に、貧困が、金銭的のみならず、家族、友人などの人間関係的な、そして気持ちのゆとりである精神的な「溜め」のなさによって生じるという説明である。貧困は単なる経済的問題ではなく社会的な問題なのである。第二に、上述した、政府、マスコミ、社会による「貧困の隠蔽」という点である。金持ちや権力者だけではなく、われわれ自身が「貧困」から目をそらしてきた。本書ではこれまで行政の対象だった「新しい公共空間」が地域や市民による「共助」によって支えられる予定であることを「地域への公的責任の押し付け」と論じているが、それは同時に、地域において共に支えあう社会資源が乏しく、公的福祉の受け皿がないことも意味しているのではないだろうか。
佐々木 伯朗 (経済学研究科 准教授)
専門分野:財政学
関心テーマ:社会保障財政
現代の経営・会計を考える上での最も重要なケーススタディ―市場と戯れ、報いを受けた大人たち―
『エンロン崩壊の真実』、ピーター・C. フサロ/ロス・M. ミラー著、橋本碩也訳 (税務経理協会、2002年)
2000年度において1,110億ドルの売上高(当時全米第7位、日本円で約12兆円)を計上していた米国エンロン社 (Enron Corp) は、不正会計問題が引き金となって2001年12月に破綻した。そして、それがきっかけとなってSOX法*が制定され、米国における会計・監査体制は強化されることとなった。エンロン社の破綻は、規制緩和、政治と企業の関係、会計・監査、企業経営、エネルギー政策など様々な問題と関連づけられるものであり、これらを考える上できわめて重要な事件である。
エンロン問題をめぐる文献はいくつか刊行されているが、本書は比較的初期に出版されたものである。主要な登場人物―CEO*のケネス・レイ、ジェフリー・スキリング、アンドリュー・ファウスト―に焦点を当てつつ、エンロン社の誕生、社内風土、議会への工作、規制緩和を受けた事業拡大、そして破綻に至る経緯を膨大な資料に基づいて詳述している。評者が特に興味を覚えたのは、子供のころスターウォーズの「カード集め」において、コレクションを完成させるためのトレーディング(交換)に熱中した世代として彼らを位置づけ、そして、そのアイデアの延長線上としてエンロンのビジネスをとらえている点である。
エンロン社の事業を説明することはきわめて困難であるが、その主要なものは、革新的な金融および情報ネットワークの技術によって主にエネルギー関連(最終的には様々なものに手を広げていくこととなる)のトレーディング市場の構築にあった。本書では、カードのトレーディングに熱中したかつての少年少女たちが、様々な知識を身につけ、より大規模かつ競争的にそれをビジネスとしていた光景が描き出されている。
エンロン問題に関する文献では、取引の技術的な側面、あるいは不正会計に注目されることが多いが、登場人物の行動とその背後にある思想ないし考え方についての記述が豊富であることも本書の魅力である。例えば、ケネス・レイは経済学の博士号を有し、大学の教壇に立ったこともあり、市場に対する信奉があったことが指摘されている。エンロン社のビジネスは、こうしたケネス・レイの考え方を具現するものであった。
最後に、エンロン事件の教訓が生かされたのかという点について、評者は十分ではないと考える。エンロン事件の後も多くの不正会計問題が各国で発生している。日本で起こったライブドア事件は、エンロン事件に比べればきわめて小規模であるが、そこで用いられた不正会計の手法は、エンロン事件で用いられたものと類似していた。本書は会計・経営の専門家ではなく一般的な読者を対象としている。コーポレートガバナンス、不正会計、会計制度の改革、市場のあり方を考えるにあたって、まず手に取るべき1冊としてお勧めしたい。
* SOX法 (Sarbanes-Oxley Act) :米国の公開企業会計改革および投資家保護法の通称。法案提出者であるPaul Sarbanes上院議員とMichael G. Oxley下院議員の名前からこう呼ばれることとなった。
* CEO (chief executive officer):最高経営責任者
木村史彦 (経済学研究科 准教授)
専門分野:財務諸表分析、実証的会計
研究関心テーマ:経営者の利益操作、会計とコーポレートガバナンス
2000年度において1,110億ドルの売上高(当時全米第7位、日本円で約12兆円)を計上していた米国エンロン社 (Enron Corp) は、不正会計問題が引き金となって2001年12月に破綻した。そして、それがきっかけとなってSOX法*が制定され、米国における会計・監査体制は強化されることとなった。エンロン社の破綻は、規制緩和、政治と企業の関係、会計・監査、企業経営、エネルギー政策など様々な問題と関連づけられるものであり、これらを考える上できわめて重要な事件である。
エンロン問題をめぐる文献はいくつか刊行されているが、本書は比較的初期に出版されたものである。主要な登場人物―CEO*のケネス・レイ、ジェフリー・スキリング、アンドリュー・ファウスト―に焦点を当てつつ、エンロン社の誕生、社内風土、議会への工作、規制緩和を受けた事業拡大、そして破綻に至る経緯を膨大な資料に基づいて詳述している。評者が特に興味を覚えたのは、子供のころスターウォーズの「カード集め」において、コレクションを完成させるためのトレーディング(交換)に熱中した世代として彼らを位置づけ、そして、そのアイデアの延長線上としてエンロンのビジネスをとらえている点である。
エンロン社の事業を説明することはきわめて困難であるが、その主要なものは、革新的な金融および情報ネットワークの技術によって主にエネルギー関連(最終的には様々なものに手を広げていくこととなる)のトレーディング市場の構築にあった。本書では、カードのトレーディングに熱中したかつての少年少女たちが、様々な知識を身につけ、より大規模かつ競争的にそれをビジネスとしていた光景が描き出されている。
エンロン問題に関する文献では、取引の技術的な側面、あるいは不正会計に注目されることが多いが、登場人物の行動とその背後にある思想ないし考え方についての記述が豊富であることも本書の魅力である。例えば、ケネス・レイは経済学の博士号を有し、大学の教壇に立ったこともあり、市場に対する信奉があったことが指摘されている。エンロン社のビジネスは、こうしたケネス・レイの考え方を具現するものであった。
最後に、エンロン事件の教訓が生かされたのかという点について、評者は十分ではないと考える。エンロン事件の後も多くの不正会計問題が各国で発生している。日本で起こったライブドア事件は、エンロン事件に比べればきわめて小規模であるが、そこで用いられた不正会計の手法は、エンロン事件で用いられたものと類似していた。本書は会計・経営の専門家ではなく一般的な読者を対象としている。コーポレートガバナンス、不正会計、会計制度の改革、市場のあり方を考えるにあたって、まず手に取るべき1冊としてお勧めしたい。
* SOX法 (Sarbanes-Oxley Act) :米国の公開企業会計改革および投資家保護法の通称。法案提出者であるPaul Sarbanes上院議員とMichael G. Oxley下院議員の名前からこう呼ばれることとなった。
* CEO (chief executive officer):最高経営責任者
木村史彦 (経済学研究科 准教授)
専門分野:財務諸表分析、実証的会計
研究関心テーマ:経営者の利益操作、会計とコーポレートガバナンス
経済学の創出
『ジェームズ・ステュアート『経済学原理』草稿 ――第三編 貨幣と信用』奥山忠信・古谷豊 編著、御茶の水書房、2006年
かなり昔のことである。1745年10月、イギリス北部にあるスコットランドの首都エジンバラ。その中心部で、ステュアートはそのとき朝食をとっていたそうである。彼はすでに、彼の人生を一変させることになる「賭け」に出る決意を固めていた。
32歳の誕生日をちょうど迎えつつあったステュアートは天賦の才能に恵まれ、有能な法律家かつ大政治家であった祖父の生まれ変わりであると評されていた。しかしそのとき彼の将来は、のがれがたい閉塞感で覆われていた。というのも当時スコットランドでは、彼と対立する政治グループが権力中枢を握り、ロンドンの政権と結んで徐々に盤石な体制を築きつつあったのである。
ところがステュアートにとって幸か不幸か、そのときスコットランド北部から大暴風雨がやってきた。1745年のジャコバイトの乱、通称「フォーティー・ファイブ」。18世紀イギリスでの最大の革命運動である。イギリスの前の王朝の子孫が王権を主張しスコットランドの一部の勢力を従えて9月にはエジンバラ市に乗り込み、12月にはロンドンのわずか200キロ北にまで迫るほどの勢いをみせたのだった。
1745年10月、エジンバラ中心部。ステュアートはこの暴風雨に自らの人生の大逆転を賭け、革命勢力の側についたのである。ただ、洞察力に秀でたステュアートには、この賭けは勝つ見込みが小さいと予め分かっていたふしがある。彼にとってそれだけ閉塞感が強かったのか、あるいは自らの能力への過信があったのか。
ともあれ革命勢力はまたとない人材を得た。声明文や宣言書は彼によって起草され、また月末にはフランスのルイ15世と交渉するためにヴェルサイユとパリに向けて発つ。革命軍がイギリス軍に敗れて、ステュアートの壮大な逆転劇が水泡に帰するのはその翌年のことであった。ステュアートは反逆罪として市民権を剥奪されてしまう。政治家として、スコットランドのため・イギリスのために力を尽くすという将来の夢はついえた。
ステュアートはその後、自らの軽率な判断を心から反省することになる。政治家として・法律家として自らの才能を活かす道を断たれたステュアートが、別の形でスコットランドないしイギリスに寄与しようとしたのが『経済学原理』の執筆なのであった。イギリスで初めて「経済学(political economy)」を題名に冠した書であり、その九年後のスミスの『国富論』とともに経済学の近代的誕生を果たした古典である。誠に、何が幸いするかは分からない。我々がこの古典を手にできるのも、ステュアートが賭けに敗れたおかげである。
内容はいくつかの重要な点で『国富論』とは対極にあった。いや、むしろスミスが『経済学原理』の理論に対置させつつ『国富論』を仕上げた、というのが実相である。1767年刊の『経済学原理』と1776年刊の『国富論』。経済学という科学は初めから、いわばその後の様々な学派間の論争の火種を抱えつつ、誕生したのだった。
本書はその経済学の一方の古典である『経済学原理』の理論体系がどのようにしてできあがったのかを明らかにする研究である。私は古都・エジンバラに渡り、かつてステュアートが朝食をとっていたタウン・ハウスのすぐ近くに居を構えて連日・連夜ステュアートの自筆草稿をときほぐしていった。国事犯の身であることを忍びつつ、新しい科学「経済学」を一からつくろうと志したステュアート自身の気持ちになったつもりで。結果としてこの草稿は『経済学原理』を読み解くうえでとても重要な草稿であることが明らかとなった。草稿に散らばる大小様々なヒントをつなぎ合わせていくなかで、ステュアートが従来の貨幣論を受け継いでそこからどのように大きな展開を果たしたのかが浮き彫りにされてきた。この貨幣論の発展こそが、彼の名高い動態的な貨幣的経済理論を生むにいたったポイントだったのであり、それに伴って彼の経済学体系の構想は今日の形へと組み換えられたのであった。
古谷 豊(経済学研究科 准教授)
専門分野:経済学史
関心テーマ:重商主義・古典派
かなり昔のことである。1745年10月、イギリス北部にあるスコットランドの首都エジンバラ。その中心部で、ステュアートはそのとき朝食をとっていたそうである。彼はすでに、彼の人生を一変させることになる「賭け」に出る決意を固めていた。
32歳の誕生日をちょうど迎えつつあったステュアートは天賦の才能に恵まれ、有能な法律家かつ大政治家であった祖父の生まれ変わりであると評されていた。しかしそのとき彼の将来は、のがれがたい閉塞感で覆われていた。というのも当時スコットランドでは、彼と対立する政治グループが権力中枢を握り、ロンドンの政権と結んで徐々に盤石な体制を築きつつあったのである。
ところがステュアートにとって幸か不幸か、そのときスコットランド北部から大暴風雨がやってきた。1745年のジャコバイトの乱、通称「フォーティー・ファイブ」。18世紀イギリスでの最大の革命運動である。イギリスの前の王朝の子孫が王権を主張しスコットランドの一部の勢力を従えて9月にはエジンバラ市に乗り込み、12月にはロンドンのわずか200キロ北にまで迫るほどの勢いをみせたのだった。
1745年10月、エジンバラ中心部。ステュアートはこの暴風雨に自らの人生の大逆転を賭け、革命勢力の側についたのである。ただ、洞察力に秀でたステュアートには、この賭けは勝つ見込みが小さいと予め分かっていたふしがある。彼にとってそれだけ閉塞感が強かったのか、あるいは自らの能力への過信があったのか。
ともあれ革命勢力はまたとない人材を得た。声明文や宣言書は彼によって起草され、また月末にはフランスのルイ15世と交渉するためにヴェルサイユとパリに向けて発つ。革命軍がイギリス軍に敗れて、ステュアートの壮大な逆転劇が水泡に帰するのはその翌年のことであった。ステュアートは反逆罪として市民権を剥奪されてしまう。政治家として、スコットランドのため・イギリスのために力を尽くすという将来の夢はついえた。
ステュアートはその後、自らの軽率な判断を心から反省することになる。政治家として・法律家として自らの才能を活かす道を断たれたステュアートが、別の形でスコットランドないしイギリスに寄与しようとしたのが『経済学原理』の執筆なのであった。イギリスで初めて「経済学(political economy)」を題名に冠した書であり、その九年後のスミスの『国富論』とともに経済学の近代的誕生を果たした古典である。誠に、何が幸いするかは分からない。我々がこの古典を手にできるのも、ステュアートが賭けに敗れたおかげである。
内容はいくつかの重要な点で『国富論』とは対極にあった。いや、むしろスミスが『経済学原理』の理論に対置させつつ『国富論』を仕上げた、というのが実相である。1767年刊の『経済学原理』と1776年刊の『国富論』。経済学という科学は初めから、いわばその後の様々な学派間の論争の火種を抱えつつ、誕生したのだった。
本書はその経済学の一方の古典である『経済学原理』の理論体系がどのようにしてできあがったのかを明らかにする研究である。私は古都・エジンバラに渡り、かつてステュアートが朝食をとっていたタウン・ハウスのすぐ近くに居を構えて連日・連夜ステュアートの自筆草稿をときほぐしていった。国事犯の身であることを忍びつつ、新しい科学「経済学」を一からつくろうと志したステュアート自身の気持ちになったつもりで。結果としてこの草稿は『経済学原理』を読み解くうえでとても重要な草稿であることが明らかとなった。草稿に散らばる大小様々なヒントをつなぎ合わせていくなかで、ステュアートが従来の貨幣論を受け継いでそこからどのように大きな展開を果たしたのかが浮き彫りにされてきた。この貨幣論の発展こそが、彼の名高い動態的な貨幣的経済理論を生むにいたったポイントだったのであり、それに伴って彼の経済学体系の構想は今日の形へと組み換えられたのであった。
古谷 豊(経済学研究科 准教授)
専門分野:経済学史
関心テーマ:重商主義・古典派
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